9/15(日)、宮口遥名×榎本智史ピアノデュオリサイタル「ウィーンのクラシックとモダン」にお越しくださった皆様、ありがとうございました。
オーストリアと日本の修好150周年に合わせて企画したコンサートとして、ウィーン古典派のハイドンとモーツァルト、新ウィーン楽派のシェーンベルク、ベルク、ヴェーベルン、そしてその同時代のハウアーというプログラムを組みました。どちらかと言えば“いいとこ取り”のようなものだったはずが、実際にお客さんの前で演奏してみたら軽くなかったどころか重量級で高カロリーなプログラムだったことが判明…これは反省点でもあります…(笑)
ちょっとした僕個人の裏話、というか考えていたことを書きます。
クラシック音楽というものはどうしても一般の人たちにとって“教養”として見られている面があります。確かにその音楽を作る際に考えられるロジックを“音楽理論”としてまとめ、学問として研究する音楽の代表格ではあるでしょう。事実そのようにクラシックは発展してきましたし、それは重要なポイントでもあります。
しかし、クラシック音楽を“教養”として一般聴衆に“教える”ために僕は演奏をしているわけではないはずなのです。そう、もちろん“楽しんでもらうため”です。
現実はどうかというと、ウィーン古典派はクラシック音楽における最高峰の権威として過大に崇められ、対して新ウィーン楽派はその耳馴れなさ故に聴衆に浸透していないどころか、一部の音大生や音楽教師、果ては演奏家にさえ拒絶される始末。
僕は…ウィーン古典派の音楽を、権威的なものではない、彼らのユーモアが輝くものとして…新ウィーン楽派の音楽を、理屈で難しそうなことをわざとやっている非人間的なものではない、彼らの勇気が考え出したものとして…さらにはクラシック音楽を、学問的な教養ではない、人間が創意をもって行った心の営みとして…提示したかったのだと、振り返ってみて思うのです。
辿り着く問題は「どうやったら今の人たちが自分たちの音楽として楽しむことができるか」ということだったと思うのです。ただでさえクラシック音楽は昔に作られたもの。それをただ単に出すだけでは博物館と変わりません。
そのためには、その音楽がどんな風に面白いのかを説明することで聴衆の理解を手助けし、最後は聴衆自身の力でその面白さを体感してもらうしかないと思います。「聴衆の耳を育てる」などと言うのは上から目線で烏滸がましい表現ですが、「私のような詳しい人間が音楽の何たるかを教えてやろうフフン」などということではなく、聴衆が音楽を受け止める糸口を掴めるように聴取の場を提供していくことが、演奏家の使命であると考えています。
演奏家は作品について非常に難しいことも研究します。それは間違いなく学問の範疇であり、演奏家の責任として避けて通れないものです。しかし、その研究は結局のところ、聴衆に音楽を楽しんでもらうためにやっていることなのです。その難しい部分に興味があるならあるでまた面白さを味わえますが、音楽の知識が無かったとしても、音楽は楽しめるものです。コンサートに行けば面白いものが聴けるんだと思って、ちょっと遊びに行く程度の感覚でコンサートに足を運んでくれる人が増えたなら、今回のコンセプトはほぼ成功でしょう。
謝辞。
宮口家の皆様、合わせに何度もお邪魔させていただきました。ありがとうございました。
そして何より僕にシェーンベルクとハウアーを押し付けられ、また即興を無茶振りされつつも、持てる分の勇気で音楽を貫いてくれた宮口さん!
ねぇ、音楽ってこんなに自由だったんだよ!
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