松平敬さんの記事『「分からない」は素晴らしい』に、僕は賛同の立場です。一度味をしめてしまえば、未知のものに触れることは以後楽しいこととして感じられるでしょう。新しい世界が拓かれるということは、人によっては少しの痛みを伴うかもしれませんが、トータルでは快感の方向であると信じております。岡本太郎が「何だこれは…!」と言うのと同じような感覚でいればこんなに楽しいこともないでしょう。
そして音楽の場合、その「わからない」を解消するためにすることは、兎に角 "聴き込む" ことであると言えるでしょう。大抵はその音楽の "聴き方" がわかると、音楽は割とすんなり入ってくるものです。繰り返し聴き込む中で、無意識のうちにでも「どのように聴いたらよいだろう?」ということを考えて聴くようになります。
音楽のプロでさえ、未知の音楽をたった一度聴いただけで「全部わかった」などということはそう頻繁にはありません(よっぽど音楽がシンプルであからさまだとしたらそれもあるかもしれませんが)。ですから、一度聴いてよく分からなかっただけで「この音楽は分からない!」と切ってしまわなくてもよいのではないかと思います。
僕だって人生で初めてシェーンベルクやヒンデミットを聴いた時は "わけのわからない音楽" だと思ったものです。それがだんだん耳に馴染んできて、今は普通に楽しめるようになりました。そして、まだまだ今の僕にも "よくわからない" 音楽はあります。今はわからなくても、きっとそのうち面白くなりますから、そこは聴く機会を根気よく何度も経験すればよいと思うのです。子供の頃には不味いと感じていた食べ物や飲み物が大人になったら美味しく感じるようになった、なんていうことと同じようなものです。
さて、ここまで書いたことはあくまでも鑑賞者側の心持ちの話であります。しかしここで、演奏者側からの工夫もあってほしいと、僕は思うのです。
もちろん、そもそも未知の音楽、"わからない" 音楽に触れられる機会を設けていくことは重要でしょう。クラシック音楽においては、定番のプログラムが延々と組まれる風潮にまず逆らうところから始めてもよいと思います。みんながみんな同じ曲ばかり演奏すると、音楽の多様性を狭めそうにも感じます。それは鑑賞者にとっては「お品書きが少ない」ような話でしょう。
その上で必要なのが、"わからない音楽" を "そこまでわからなくもない音楽" として聴かせる演奏方法の工夫だと思います。具体的な方法としては、聴き方のヒントを与える巧妙な解説を行ったり、関連性のある作品を並べて共通するポイントを聴き取らせたり…と考えられるでしょうし、僕よりも良いアイデアが浮かぶ人もいらっしゃるでしょう(むしろ良いアイデアがあったら教えてほしい)。
要するに言ってしまえば、キュレーター目線を持ってコンサートプログラムのデザインを行うことで変わっていくものがあるのではないかということなのです。色々な言い回しで度々書いていることに結局戻ってくるのです。"わからない音楽" に不快や嫌悪を抱く人は存在するでしょう。ならばそれを "わからない音楽" ではないように感じさせれば良い話だと思うのです。ここで "わからない" よりも先に音楽的快感を味わわせてしまえば、自然と未知の音楽に対する警戒は解けていくのではないでしょうか。
「未知の音楽に触れることは素晴らしい」という字面を「未知の音楽を好まないあなたはよろしくない」と受け止める人もいらっしゃることでしょう。意識転換を真っ向から進めようとすると衝突もいくらか起きたりするものです。ならば、いかにも世間に溢れたコンサートプログラムの一つのような顔をしながらほぼ無痛の価値観転覆を試みるようなプログラム構成があったら画期的かもしれません。
キュレーションは演奏技術だけで可能になるものではありません。それこそ演奏家自身が様々な音楽作品、ひいては音楽史などにもある程度詳しい知識を持ち、それらを配置したプログラムの脈絡を考える必要が出てくるでしょう。一筋縄ではいかないのは当然として、演奏家自身が未知の音楽を追う人間であることが大前提でなければ、これは実現できないのです。
未知に触れる面白さに目覚めるための苦労と手間は鑑賞者負担です。一方で、それに目覚めさせるための研究を行い、工夫を考えることは、演奏者側の使命でしょう。この課題を解決するカギとなるのは、意外にも鑑賞者の意識改革ではなく、演奏者の行動改革かもしれませんよ。