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執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】作曲試行のススメ:思考と苦労を知るための

 類は友を呼ぶのか、僕の周りには演奏家として活動しながら作曲もしている人が多いように感じます。母校の大学のピアノ科の先生方でそういった方はあまり見なかったはずですが、ピアノ科の同級生にはそれこそ普通にいるのです。そして大学の外に出てみると、やはり近い年代の演奏家たちが作曲もしていて、意外な仲間の多さに驚いたものです。


 

 クラシックで所謂 “演奏家”と呼ばれる人たちは、既に自分でない他の誰かが書いた作品を演奏することがほとんどです。それはもう大体は100年も200年も前に書かれた曲であり、現代の新作だったとしてもやはり自分ではない存命の作曲家が書いた作品を演奏していることでしょう。9割5分くらいの割合で「他人が書いた曲を弾いている」などと言っても過言ではないでしょう。


 音楽史を遡ってみますと、近代にはもう演奏家が作曲をし、作曲家が演奏をするという例をいくらでも見ることができます。現在では作曲家として認識されているラフマニノフやバルトークはピアニストとして、マーラーは指揮者として活躍していましたし、指揮者のフルトヴェングラー、ピアニストのリパッティやギーゼキングなどは今や演奏家としてのみ認識されていますが作曲もしていました。さらに遡れば「作曲家」と「演奏家」が分業していないところにまで行き着きます。


 どこで「作曲家」と「演奏家」が分業することが当然のようになったのかはわかりませんが、現在ではそれが顕著でしょう。どころか、演奏家が作曲をやろうとすると「どちらかにしろ!」などという忠告(?)をしてくる人も中には存在します。要するに「何でもやる万能人」よりも「一点突破の専門家」を重宝する価値観が世にあるという事情もあるのでしょうね。


 演奏家には、演奏形態(ピアノであるとか声楽であるとかオーケストラであるとか)自体ではなく、音楽に内在する思考に興味や魅力を見出す人たちがいます。ピアニストであっても、その意識がピアノというよりは音楽自体に向けられている、というような具合です。ピアノを弾くテクニックがどうかというよりも、ベートーヴェンの音楽が一体どのようなものであるかを研究したがります。ピアノで弾く機会が滅多に無いのに交響曲やオペラや弦楽四重奏曲を聴き漁っては喜びを見出すのです。


 何をそんなに面白がっているのかというと、音楽がどのように作られているかということに興味があるというなのです。「この作曲家は一体どのようなことを考えてどうやってこのような曲を書いたのだろう?」という推理や妄想を膨らませ、それを演奏に反映しているのです。


 そして、この中からは「自分の思考で自分の音楽を書いてみたい!」などと考え始める輩が出てきます。この人たちこそが作曲を始める演奏家です。


 心の中にはやはり作曲家たちへの憧れがあります。自分たちが普段弾いているモーツァルトやベートーヴェンやショパンやリストやラフマニノフやバルトークは、みんな自分が書いた曲を自分で弾きました。彼らを敬愛するが故に、彼らと同じ心をもって同じ道を歩きたいと思うわけです。自発的に作曲を始める動機などは大抵こんなところでしょう。ちなみに僕が作曲を始めたのは中学生の頃ですが、決定打的な切っ掛けはラフマニノフの自作自演を聴いたことでした。


 

 さて、ここからが本題です。


 今時、演奏家になりたいと言って作曲にまで手を出す人は、実状としてはほんの一部でしょう。専門的に作曲を習う機会だってそんなに転がっているわけではありません。音大の和声学ですら初歩を齧って終わりであろうと思います(赤い本の範囲内だけで作曲は難しいでしょう)。確かに、作曲のことを学ばなくともピアノは弾けますし歌も歌えるでしょう。


 しかし、作曲を試みることによって得られるものは豊富です。別に本業にできてしまうレベルで作曲を習得する必要はありません。1作品すら発表せず、引き出しにしまい込んだままになるクオリティでも構わないので、試みること自体が大切だと思います。


 作曲…「音楽を作る」とは一体何なのでしょう。僕は作曲を専門的に学んだわけではないし、偉そうなことを言うと本業の作曲家の方々からお叱りを受けるかもしれませんが、自分の考えを述べさせていただくと、それは「音を結び合わせること」だと考えています。


 はて、「音を結び合わせる」とは。XとYという2つの音を並べ、これらが関連付けられて聴き手に知覚される時、XとYの2つの音は結び合わされて音楽になるというわけです。この結び合わせ方のアイデアを考えることが、作曲という行為だと思います。


 音楽を作るにあたっては、たかが2つの音だけではなく、多くの音、さらには多くの “間” を結び合わせていくことになるでしょう。音が多くなるほどに、その結び方は秩序立てなければカオスなものとなってしまいます。その秩序を考えたまとめこそが “音楽理論” と呼ばれるものです。音楽理論を勉強するというと、学生ですら「ルールを学ぶ」と考えてしまいがちだと思われますが、むしろ「アイデアを学ぶ」と思って勉強してみると、実際の音楽に繋げられるのではないかと感じます。


 作曲を試みると、この「音を結び合わせるアイデア」をどうしても考えなければならなくなります。どんな旋律を作る? どんな和声を付ける? どんな形式にする? AというテーマとBというテーマは何の関連がある? 等々。極端な話、ドがレに行くか、ミに行くか、ファに行くかというだけで音楽は変わってしまうのです。


 「ただ楽譜に書かれた音を順番に追っていけば弾けたことになる」という、音楽の脈絡に全く配慮しない堕落した演奏がありますが、それは予め楽譜の上に音符が並べられているからこそ可能なことでもあります。作曲する時、目の前の五線譜は真っ白ですから、強制的に音楽の脈絡を気にしなければならず、それについて考える非常に良い訓練となります。


 また、作曲に伴って行われる記譜の作業にも学べることがあります。作曲は想像上もしくは音の上で行われるものであり、紙の上には書かれるだけです。その書き方に問題があります。自分の考えた音楽を「どのように楽譜に書いたら、楽譜を読んだ人に伝わるか」を考えねばなりません。それは音符に限った話ではなく…例えば、強弱記号の「f」を一つ書いたところで、自分が思っている音量やニュアンスは極端な誤解無く演奏者に伝わるでしょうか。音符の上に書いたテヌートについて、演奏者は想像通りの長さで演奏してくれるでしょうか。フレーズ終わりの「rit.」が、自分の思い描いた理想的な減速で実現されるという保証はあるでしょうか。


 この音楽を楽譜に変換するジレンマと苦労というものは、実際に自分が作曲して楽譜を書く段階で実感(痛感)できます。これは、楽譜が伝えられる情報が如何に少ないかということを学べる方法であるわけです。巷で絶対的正義のように繰り返される「楽譜に忠実に演奏せよ!」という言葉は、むしろ楽譜の致命的欠点を理解していない証左とさえ言えるでしょう。楽譜には書けない音楽情報が山のようにあるという事実を知っているのは、身をもって「厳密な音楽情報は楽譜に書ききれない」という体験を経た人間です。そしてそれを知っているからこそ、楽譜に書けなかった音楽に対する想像力を働かせることができるのです。


 事実、歴史上の作曲家たちは楽譜の記譜に案外苦労しています。どのように書いたら音楽が伝わるかという、音楽を作ることとは別の観点で四苦八苦しているのです。僕が見つけた比較的わかりやすい例として、ヤナーチェクのピアノ曲《霧の中で》の第4曲を挙げておきましょう。全集版の記譜と自筆譜の記譜が調号から拍子からかなり異なっています。拍子は音符の数に合わせただけの便宜上のものにすぎず、切迫していく音の動きを表すために何の音符を使えばよいかということに悩んだことでしょう。「accel.-accel.-accel.」などという「そんなに加速してほしいんか…」みたいな指示も見られますね。現代音楽の特殊な表記を知っていたらこんな風に書くこともできたのではないかという、僕が考えた例もついでに載せておきました。



 「作曲をしない演奏家は他人の褌(=他の誰かが作った曲)で相撲を取っているんだ」などと過度に責めるつもりは無いですが、作曲を試みることによって得られる思考と苦労の体験は非常に大きいものです。


 そういえば、僕の母校である昭和音楽大学のピアノ演奏家コースでは在学当時、2年生に『演奏分析』なる必修科目があったのですが、現代のピアノ曲を扱った回で『12音技法でピアノ曲を作曲せよ』という課題が出されたのでした。僕はミニマルジャズがクラスターへとなだれ込む変な曲(タイトル《マンティコアの亡霊》)を書きましたが、振り返ってみると貴重な経験だったように思います。12音技法がただ無調を作るための単純なものではないと知ったのはそこからだいぶ後になってからでしたが、一度やってみたからこそ今理解できていることも多いのでしょう。


 既成作品の真似事でもいいし、引き出しにしまい込んでもいい。ひっそりとで構わないから、作曲を試してみましょう。音を結び合わせること、楽譜を書くこと…そこにある思考と苦労は、きっと今までは気付かなかったことを気付かせてくれるでしょう。そしてそれは演奏の中にも活かされていくのであります。

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