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執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】"わかりやすい" を突き詰めた先の「映え・バズり」:濃い味付けに疲れた時に

更新日:2021年11月18日


 濃い味付けと比喩される音楽がありますが、要するには派手、誇大、過剰な表現を加えた音楽が現代では評価されがちな面があります。大きな音が出る、速く指が動く、明らかにオーバーな表現、等々。昨今の「映え・バズり」の文化を考えれば、決して不思議というほどでもないでしょう。


 

 西洋音楽史を辿ると、芸術音楽が殆ど高度な教養を持つ階級の人間たちのものであった時期があることに気付きます。いや、もちろん民衆の間にも音楽はあったのですが、今日芸術と見倣される音楽文化の主な担い手はある時期まではほぼ知識階級であった、というのがいくらか詳しいでしょうか。


 音楽を創作・演奏する側ばかりでなく、聴く側にも音楽の教養があったわけであります。経済力を増してきた市民が芸術音楽を享受するようになる時期は、意外に時代を下ったところにあります。


 音楽が "わかりやすさ" へ流れていった原因を一つに断言することはよろしくないとは思うのですが、ヒントは歴史上に求めることもできると思います。音楽の担い手が教会・王侯貴族から一般市民に移っていった時に、音楽には "音楽にそこまで詳しくない人でも楽しめること" が求められました。そちらの路線に舵が切られることは、それを求める市場で勝ち抜くための必然だった節もあるかもしれません。


 音楽の精神の表現方法がどうの、理論や形式がどうのということなどは一般市民には受け止められなかったでしょう。そこに代わって現れて人気を得たのは、シンプルに美しいメロディを持つ音楽であったり、あるいは具体的な情景を描くような音楽であったり、そして超絶技巧によって演奏される音楽であったりしたわけです。フーガの構造美やらソナタの形式美やらがどうの、などというものよりずっと "わかりやすい" ということなのです。


 

 現代の「映え・バズり」の文化がどうもこの現象に似ているような気がしないでもない、というのが個人的な感触です。そんな主観をさておいても、"わかりやすい" を突き詰めた先にあるものこそが、派手・誇大・過剰な演出表現というものなのではないかと考えています。


 鮮やかな絵面を投稿して注目を集めるためならば、今や画像の加工には躊躇をしないでしょう。薄オレンジくらいの紅葉を真っ赤に加工することは確かに嘘ではありますが、そのように盛った方がそれを見た人たちの目には鮮やかなものとして飛び込んでいくことになるわけです。"映える" のはそちらなのです。


 あくまでも派手・誇大・過剰な演出表現が好まれたり評価されたりしてしまう原因は、「受け手が鈍感である」とすることにまとまられるものではないと感じます。確かにそのようなものが求められもしたでしょうが、"それに応じた側" もいるではありませんか。相互のやり取りの中で表現のインフレーションが起きたものであると、僕は考えています。


 文化というものは作り手だけで成り立っているものではなく、受け手がどのように受け取るかということも重要ではあります。だからこそ作り手と受け手、音楽で言うなら音楽家と聴衆が協力しなければ文化は育たないわけです。もちろん受け手にも考えていただきたいことはあるにはありますが、かといって「受け手が鈍感」などという話をブチ上げなくともよかろうと思うのです。微細な表現も受け取ってもらえるようにさり気なく誘導するのも工夫のしどころでしょう。


 そんなまさか、万人が万人揃って味音痴なわけはないはずです。そりゃあもう初めて出会ったクラシックがいきなりガチャ弾きのそれだったならば、なるほどこれはこういうトゲトゲしい面白さがあるのだななどと思ってしまっても仕方ないと思うのです。もしもその後ででも "そうではない音楽の大事なところ" を伝えてくれる演奏に出会えたならば「こっちだったか!」と思い直して下さる人たちは、決して少なくはないだろうと僕は信じます。


 音楽史上でも揺り戻しが何度もありました。均整な音楽が好まれたかと思ったら過激な音楽が現れ、そしてまた整ったものが戻ってきては、さらに華麗なものが勢いを増し… 両輪を行き来しながらバランスを取ってきたのです。「映え・バズり」に疲れた人がふらっと戻って来られるように、温かい音楽を用意して待っていることが今の自分にできることではないかなどと、大それたことを考えながら音楽に取り組んでいます。

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