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【感想】櫻井元希&カニササレアヤコ『サレガマパダミサⅢ』:響きの世界の中で歌う人間

  • 執筆者の写真: Satoshi Enomoto
    Satoshi Enomoto
  • 4 日前
  • 読了時間: 5分

更新日:1 日前


 櫻井元希&カニササレアヤコ『サレガマパダミサⅢ』を聴いてきました。会場はJR大森駅にほど近い大森福興教会、個人的には初めて行くところでした。


 櫻井元希さんは古楽の声楽家であり合唱指導者ですが、特に現在はヘクサコルドの学習書『旋法とヘクサコルド 歌と音楽に対する感受性を養うために』を執筆、そのワークショップを展開されています。僕もそのワークショップを一度受けまして、大変感銘を受けた上に『旋法とヘクサコルド』を独習中です。


 カニササレアヤコさんは巷では平安貴族芸人・雅楽芸人(?)として知られているでしょうか。今回は演奏家として笙を演奏してくれるようです。


 『サレガマパダミサ』は笙とタンプーラの音に乗ってグレゴリオ聖歌を歌うという演奏形態のコンサートシリーズです。サレガマパダニサ…はインド古典音楽における音度名シラブルです(ですよね…? 階名唱法とはまた異なっていた気がしますが、インド古典音楽には明るくないもので…)。この「サレガマパダニサ」と「ミサ」をかけているわけですね。


 このシリーズが展開されていることは「どう見ても特殊形態」な演奏会として認識はしていました。ミサ曲を歌うのはそれとして、笙とタンプーラという楽器の組み合わせ自体も、それらにグレゴリオ聖歌が乗ることも想像できませんでした。あまりにも想像の外にあったために自分の中で食指が動く優先順位が低かったことは否定できません。


 僕は古楽にもインド古典音楽にも雅楽にも詳しくありませんので、偉そうに評論じみたことは一切書けません。あくまでも今後このような企画にこれを読んだ皆様が興味を持ってくださることを期待して、その場に居合わせた一聴き手としての感想を書いてみる次第です。



 

 さて、演奏が始まる前にパンフレットを開いてみました。古楽を専門的に知っているわけではありませんが、合唱で歌った経験と大学の西洋音楽史で習った知識で、ミサ曲の形式については浅くなんとなく知っています。「ミサには通常文と固有文があるんでしょ」程度の先入観がある状態でプログラムを見てまず仰天することになります。


 ミサ曲を成す通常文の間に固有文のみならずアーラープ(インド古典音楽のラーガを即興的に提示するセクション?)や笙の調子の音取が入っているのです。ユーラシア大陸を大横断する音楽の扱い方に度肝を抜かれました。これから展開される音楽は「ヨーロッパのミサ曲」なんて狭いもんじゃないぞ、ミサやインド古典音楽や雅楽といった境界をも越える「人間の音楽」という括りの音楽だぞ…という気概を感じました。


 演奏者二人が静かに出てきて、客席の拍手も無いまま始まります。カニササレアヤコさんの笙の即興演奏から始まったのですが、これがもう殆どまるでオルガンの高音域のようで、ミサにとっての異物感が微塵もありませんでした。公演情報の字面だけでは「ミサに笙~?」と十中八九思う筈ですけれども、音楽こそが真実でして、聴き始めて5秒で「変なところなんて何も無いわ…」と一気に納得したのでした。


 櫻井さんの声による入祭唱が始まると、その音楽の自由さ、伸びやかさにまた驚くことになりました。自由奔放であるという意味ではなく、現代にかけて音楽を窮屈にしていったであろう束縛に対して自由であるという印象を受けました。無理矢理そこに居させられる歌ではなく、自由なまま望んでそこに在る歌のようでした。


 『旋法とヘクサコルド』ワークショップを受けた時にも感じたことですが、7音の階名であるヘプタコルドにおいてさえ、音楽理論の機能美に人間が嵌め込まれてしまいそうになるものです。機能の合理性が美しいという価値観ももちろんあってよいものの、しかしやはり機能の合理性に捕らわれる面もまた否定できません。まして絶対音感偏重などは人間を絶対音高の牢獄へ究極的に幽閉してしまうでしょう。それらから解放されて自由であることを櫻井さんの歌からは感じました。


 タンプーラが入ってのアーラープを経て、キリエで声と笙とタンプーラが揃います。全プログラムからすればまだまだ頭の方ではありますが、もうこの時点で「この音楽世界で最後まで行けるんだな…」という、演奏者でもないのに確信を抱きました。いや、これは僕自身がピアノで良い演奏ができそうだと確信する時に起こってくれる感覚なのですが、それが聴き手の立場なのにあったということなのです。世界がもう完成しているのであとはそれが続くだけなのです。


 教会に行ったことはこれまでにも何度かありました。ただ、流石にこのコンサートのような編成を教会で聴くことは今回が初めてでした。笙とタンプーラの響きが本当に空間に満ちるのですね。この体感は録音で味わうにはどうしても限界があると思います。これらの響きに礼拝堂全体が包まれて出来上がった世界の中で人間が歌うという構図が完成するわけです。


 確かに櫻井さんとカニササレアヤコさんが演奏した音楽であることは事実なのですが、それはそれとして僕の感じた音楽は「ここからここまで演奏された音楽」というよりは「起こってきて消えていった音楽」あるいは「入ってきて出ていった音楽」のようなものだったと思います。いや、もしかすると僕たちが「音楽に入っていって出てきた」という可能性もあります。堂内には音楽の存在の自然さが満ちていたように感じます。


 あまり仰々しい文章表現をすると「そんなに凄まじい演奏だったのか」と誤解されそうですので、むしろ終始とても「温かい演奏だった」ということは書いておきたいと思います。こんな編成での演奏はこの企画以外には無いと思いますが、その一方で「人間はこんな風に音楽を始めたのだろうな」と思えるものでした。



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