こうして文章を徒然に書いたりネットを運用したりすることによってコンサートやレッスンの宣伝広報にしようなどということを企んでいる身にとって大きなブーメランになることを書きたいと思います。なお、それらを貶める意図はありません、念のため。
どうもブログ記事なり譜例付きの蘊蓄なり演奏動画なりを発信していると、外面的には反応が良さそうに見える一方で、本当にそれらを体感するまでに至ったようには思えないことがしばしばあります。特に僕のフィールドは音楽であるわけですから、聴き手を「音楽を体感する」というところまで引き込むことができなければならないと考えています。
この考えが頭の固いものである可能性はありますが、あくまでも僕は時間空間体験としての音楽体験を至上に置きたいと思っています。どうしても映像を撮影しての配信では取り零される要素がある(技術的問題で拾いきれない)ということも実感しましたし、机上・楽譜上のみの"理解"だけでは音楽体験には程遠いでしょう(それはグラフでしかない)。
「百聞は一見に如かず」という言葉がありますが、近年のメディアの扱い方が百聞自体を楽しむという傾向にあるように思います。確かに情報を聞くこと自体に楽しみがあることは否定しません。しかし、人々の中で百聞が一見以上の存在感・現実感を獲得してしまっているということに対してはある種の危惧を覚えます。
かく言う僕自身も変に発信が多いせいで、恐らく自分の知らないところで曲解や評価を受けたり虚像が立ったりしているのだろうなとは想像しています。実像の榎本智史はピアノを弾いている時にしか存在していないと本人は考えているのですけれども、きっとそのあたりはあまり伝わっていないでしょう。
そのようなこともありまして、SNSでちょっと文章や図の形で見えるようにしただけの音楽の要素について「そうなんだ~!」みたいな反応をされると、「『そうなんだ~!』じゃねえわ、自分で弾くなり演奏を聴きに来るなりせえや!」という気分になります。言葉や図自体が音楽の体感を満たすことは無いでしょう。
このことに関しては、巷で「興味を持ってもらうため」という名目で作曲家の面白変人エピソードが消費されたり、あるいは偉そうな指導者が発信した音楽にまつわる文面の主張がそのまま金科玉条のように鵜呑みにされたりするといった事例を同様に苦々しく思っているところです。それ自体は言葉や文面であって音楽ではなく、しかしその言葉や文面によって満足感や理解感を得られてしまうあたりが歯痒いところです。
手前にある情報だけを聞いて満足してしまいがちな現状において、実際に「聴く」という行為を通して音楽の体験を経るということの重要性は強く留意してよいと思います。蘊蓄を百回聞くよりも音楽を一回聴く方が実りがあるというものでしょう。
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