バレンボイムが来日公演をするという話は聞いていましたが、コロナ禍でまさか本当に来られるとも信じていませんでしたし、結局仕事で行けませんでした。聴き逃した人間にコンサート評をすることはできないのでして、その点について僕に言えることは何もありません。
そのバレンボイムのリサイタルにおいて、ベートーヴェンのピアノソナタ第1番~第4番というプログラムのはずが、予告無しに第30番~第32番というプログラムに化けてしまうという珍事が起こりました。
曲目など気にせずバレンボイムの演奏であるというだけでチケットを買った人は多いでしょうし、またどちらかと言えば初期ソナタよりは後期ソナタの方がファンも多いでしょうし、殆どの人はこのトラブルを笑って許したか、むしろ後期ソナタが聴けてラッキーだと思ったでしょう。そして、「どうしてもバレンボイムの演奏する初期ソナタに接してみたかった」という人だけがやや残念な思いを一部拭えないということも事実であるとは思います。
起きてしまったことではありますし、誰も責められることが無ければいいなとは思うところであります。
「※当日の曲目は変更となる場合がございます」という文言は、クラシック音楽のコンサートでは日常的なものです。本当に曲目変更が日常茶飯事のように起こるわけではありませんが、珍しいというほど珍しいものでもありません。演奏者たっての希望で当初予定に無かった作品を演奏することになり、 その代わりに時間的な都合で別の曲が抜ける…とか、あるいは演奏者がやむを得ない理由で交代することになった結果、曲目も変更になる…といったことが起きるわけです。
クラシックのコンサートを普段からたくさん聴きに行く人たちはもう馴れてしまっているでしょう。しかし振り返ってみると、なかなかリスキーなことをやっていることにふと気付きます。
コンサートの集客の時点で、通例として演奏曲目の情報も公開されます。この曲とこの曲とこの曲を演奏しますよ、というPRが必然的に行われるのであります。コンサートを行う側が曲目を積極的にPRしなかったとしても、「その曲が聴けるなら行ってみよう」と思ってコンサートに足を運んでくださるお客様はいらっしゃることでしょう。
日常生活の中で何か商品を買う際に、それがどんな品物なのかを確認すると思います。本棚を買うにしても寸法を調べるでしょうし、紅茶を買うにしてもどんなブレンドなのかを見るでしょうし、CDを買うにしても収録曲を読むでしょう。パッケージを確認するということです。
そうやって買ってみたものの中身がパッケージと違うということになれば、これは普通は問題になるわけです。「メニュー表の写真と実物が違う!」なんてネットでたまに晒されているのを見たりもしますね。
ちょっとした僕の昔の笑い話を提供しておきましょう。高校生の時にシベリウスの交響曲第5番~第7番の2枚組CDを買ったことがありました。第5番と第6番が収録されているはずの方はきちんと曲が収録されていました。しかし問題は第7番が収録されていた方にありました。想像してみてください、シベリウスが流れると思ってプレーヤーの再生を押したら《フィガロの結婚》序曲が聴こえてきた時の僕の心境を。CDの盤面にさえシベリウスだと書いてあるのですよ。それを買った横浜のタワレコ(当時はモアーズの建物内にあった)に持って行ったら全回収になりました。
曲目変更が消費者法的に危ないという認識は、僕にも今の今まで無かったことを白状します。僕自身は曲目変更をやったことは一度もありませんが、確かに「この曲を目当てに聴きに来たのに弾いてくれないのか」と言われたら立場は完全に下だと思います。お客様がコンサートに足を運んでくださるに至る "要因" まで、演奏者や企画者が意図的にコントロールすることはできないのであります。
クラシック音楽では当然のようになっている曲目変更は、一般社会から見るとかなり非常識であるのかもしれません。想像している以上に聴衆の信用を失うという可能性を考えるべきだと思います。あくまでも商売の形態をとってやっているという事実を軽く見てはならないでしょう。
法を踏み抜くとまで言われてしまうと、どうにかそのようなこと無く曲目変更を維持する方法は無いだろうかとまず考えます。これに関しては既に経験がありまして、告知や宣伝で詳しい曲目を出さないという方法を取ることができると思います。
フライヤーに書く曲目を、本当にこれだけは変更しないというものだけに限定しておいて、変更するかもしれない曲目を「ほか」「など」と書いてやりすごすという手段があります。広報を見ている人には「ほか」が何の曲を指しているのかがわからないので、当日に何を演奏しても「ほか」という紹介に当てはまり、嘘はついていないことになります。さすがに「"ほか" の部分で○○を弾くと思って楽しみにしてきたのに!」は言いがかりになるでしょうし。
そういえば、ポピュラー音楽ではライヴの告知をする際に、特にセットリストを予め公開することはありません。ただ、そのアーティストやバンドのオリジナル曲の中から何か、しかも最近の曲が多く演奏されるだろうという暗黙の了解はあるように感じます。つまり "曲目" のヒントは公開されていると見ることもできるかもしれません。オリジナルだとばかり思って行ってみたらカバー曲ばかりだった…みたいなことになったら、どんな反応が待っているでしょうか。
「行くコンサートを曲目で選んで、その演奏家の音楽性は二の次か!」という意見も見られます。曲目を目当てに行くことは決して悪いことではないと思いますし、その曲をどのように演奏するかということに興味を持つ人もいるだろうとも思いますが、せっかくですから "曲目" という要素を抜き、演奏家の音楽性を目当てに行くコンサートを選ばせる方法を考えてみます。
コンサートの集客段階で曲目を公開してしまえば、こちらがそれを望んでいなくとも、曲目に惹かれてコンサートに来てくださる人たちも出てくるでしょう。ならば「演奏曲目は当日のお楽しみ」という広報をすればよいと思います。「この人が演奏するのであればそれがどんな曲であっても間違いない!」と思わせるだけの信頼を獲得しておかねばならないというハードルはありますが、これによって曲目に囚われない聴取姿勢を実現することはできます。実際に試みられている例もあるようです。
バレンボイムの域ならばそういう方式を取ったとしても集客不安など微塵も無いのでは、とも思ったりします。それだとあまりに情報が乏しいならば、「当日はベートーヴェンのソナタの中から気の向いたものを弾きます」で良いでしょう。予めそのようなコンセプトだったならば、此度の件は事故でも何でもなかったでしょう。初期ソナタを弾くということにしてしまっていたからこそ、演奏の良し悪しとは別のところで信用を損ねたと言えるのです。
ところが、その "音楽性" という基準も純粋に評価されにくい事実はあるでしょう。聴衆にとって、その評価は演奏を聴く経験の積み重ねによってのみ成し得るものです。そこに至るまで曲目を伏せられたコンサートに通い続けることを強いるのは、さすがに聴衆を篩にかけることと紙一重ではないかという懸念を抱いたりもします。
また、曲目情報が無いことによって、演奏者情報に比重が寄ることも考えられます。それが「過去にどのような演奏をしたか」のみに上手く留まるなら理想的なのですが、要らぬ尾ひれが付く可能性は否定できないでしょう。意図せずとも「○○音楽院卒業の~」「○○コンクール入賞の~」という経歴を注目されることもあるでしょうし、音楽とは関係無い人柄をクローズアップされることもあるかもしれません。キャラクターばかりが立って何の変哲もない平凡な内容のコンサートをされても面白くないと思います。
社会の中の全ての人たちがクラシックのコンサートの常識を適用して生活しているわけではありませんし、その考え方を批難しても溝を深めるだけではないかと思います。「曲目ではなく音楽性を」という理想はありながらも、曲目を取っ掛かりにする人たちが存在する事実は認めねばなりませんし、それを悪いものと見るのは違うと思うのであります。
やり方を工夫する側は演奏者であり企画者なのです。ごく限られた範囲内の常識が、特に広くもない一般範囲内において非常識である可能性は充分にあるのです。それを無理矢理貫き通そうとするならば、代償として失うものは確実にあると思います。
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