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執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】作品の組み合わせによる異化作用:"聴こえ方"を操作するキュレーション


 コンサートのプログラム構成にまつわる話は、このブログでも時々思い出したように何度か取り上げています。「プログラムに繋がりやテーマ性を!」と度々主張しているのは、たまたまその時に練習していたという理由だけで曲を選んだり、とりあえず演奏すればウケるであろう定番曲を寄せ集めただけのようなプログラムを組んだりする傾向を批判するため…というのが一番の理由ではあります。


 ただ、それだけではなく、プログラムにテーマを持たせることによって各曲が繋がりを持ち、単なる寄せ集めではなく一連の流れとして、一本のコンサートの意味が生まれ始める現象を期待できるという面があります。たとえ聴き飽きられているほどの定番曲であっても、別の作品と組み合わせることによって、それまでに気付かれなかった新たな一面が認識され始めるかもしれないのです。


 演奏家のスター化路線が推進されがちな昨今、「その演奏家が弾くなら何でもよい」という考えが裏目に出て、再三に演奏されてきたような曲がただ弾かれるだけということも起こりつつあります。多様化へ戻す一つの切っ掛けとして、プログラム構成はポイントになり得るのではないでしょうか。


 

 さて。現在におけるクラシックのコンサートの場合、演奏される曲目は既に作曲され、規定されたものが殆どを占めると言ってよいでしょう。即興演奏も見直され始めている空気はありますが、まだまだ少数派かと思います。


 既に中身がそれなりに規定された作品を演奏するため、まず演奏家たちは作品単体に独自の解釈を加えることによって他演奏家との差別化を図ります。その一環の例として即興的な要素を足したりすることさえあるわけでして、それはそれで面白ければ良いという面もあるとは考えています。


 そしてそれを受けて、聴き手も「この演奏家はこの作品についてどのような解釈をするだろうか」という観点でクラシックを聴くことになるのであります。この時、意識はあくまでも "その一つの曲" に向いているため、プログラムに脈絡が無くとも気にならないということに繋がってくるのではないかと想像します。


 なるほど、現代の動画サイトなどでは一作品ずつアップされるのが殆どでしょうし、音楽のダウンロード販売はなんと1曲ずつ買うことができます。お望みの曲だけを選んで聴くことができる時代になりまして、便利と言えば便利なのでしょうけれども、アルバム(まとまり)として聴く意識がどうなっていくのかは要観察といった心持ちです。


 

 作品はもう既に書かれてしまっていて、それらは演奏者の解釈を加えることのみによってしか姿を変えることはできない…そうお考えの方は少なくないと思われます。しかし、"演奏者にとっての演奏する音楽の姿を変える" ことだけでなく、"聴き手にとっての聴く音楽の姿が変わる" ことを狙うという手法もあるのです。


 プログラム構成やコンサートの運び方における工夫を加えることによって、それは実現されると考えています。


 例えば、類似点を持つ作品を並べてみましょう。それらを続けて演奏していくことによって、聴き手はその類似点を聴こうとする聴き方へと誘導されていくのです。実際に変わるのは音楽ではなく聴き手の聴き方の方なのですが、聴き手にとっては音楽が異なるものへ変質したように聴こえます。作品の組み合わせが音楽同士に異化作用を起こす、と言えるでしょうか。


 バッハとベートーヴェンを組み合わせたら?

 ハイドンとベートーヴェンを組み合わせたら?

 ブラームスとベートーヴェンを組み合わせたら?

 シェーンベルクとベートーヴェンを組み合わせたら?


 …やはりそこにはそれぞれ新たな文脈が発生し、同じベートーヴェンが異なったものとして聴こえてくる可能性を期待できると思います。そして、その異化作用を感じ取るからこそ、どのように演奏するかという解釈の面のアイデアへ繋がってゆくこともあるかもしれません。


 過去の作品を演奏しているという事実は事実です。しかし、そこに新鮮さを持たせる工夫は可能であると考えます。それが、今まで聴いたことが無かった音楽をやるのではなく、今までにも聴いたことがあったかもしれない音楽の聴こえていなかった部分を浮き彫りにして示すというやり方であるわけです。


 これを実現しようと目指した時に演奏家に求められるものは、昨今囁かれるようになったキュレーターとしての能力でしょう。テーマに沿って音楽を並べ、そこに新たな価値を見出だせるようにコンサート・プログラムを組み立てることです。美術展や博物展と異なるのは、演奏家自身が音楽に大きく干渉できるという点でしょうか。個人的には、そのテーマに沿うために多少スポットを当て方を変える…つまりは演奏方法を恣意的にすることは許されなくはないと信じております。


 

 そんなわけで手前味噌など出してみますと、今月11/21に渋谷の松濤サロンで演奏するスウェーリンク→フランクというプログラムも、来月12/18に空音舎で行う『重ねる音楽 ─ 重なる音楽』というソロ・コンサートも、一見するとバラバラな作曲家たちの寄せ集めプログラムのように見えて、それぞれの作品を繋ぎ合わせる要素が様々な形で隠れています。コンサートを通して音楽が一繋ぎになった時に、少しでも新しい何かに気付いていただける機会にしたいと思うのであります。


 …とは言いつつも、クラシックの聴き手というものは大抵保守的でありまして、中には「演奏家の意図を押し付けられる演奏なんか聴きたくない!」というお叱りが飛んでくることもあります。一体どこに「演奏家の意図を押し付けない演奏」などというものが存在するのかという疑問はありますが(演奏者の意図はどうしても音楽に入るものです)、聴き手がプログラムの楽曲をそれぞれ意識の中で切り離して聴けばよいだけのことかと思います。そうしたところで音楽の面白さが消えるわけではありません。


 僕自身が音楽に限らず美術展や博物展においても、そのような視点で観賞を楽しんでいるという個人的要因もあった上での一意見として受け止めていただき、少しでも「音楽同士の繋がり」に興味を持っていただけたら幸いです。そのような観点にこだわりをもっている演奏家は増えてきていますよ!

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