音楽は時間の上に成立する芸術です。Xという音の次にYという音が聴こえてくるか、Yという音の次にXという音が聴こえてくるかというだけでも、音楽は異なったものになります。音楽が文脈や論理に喩えられる点はここにあります。
作曲家たちが音楽を作る際に、どのように音楽を始め、どのように音楽を終わるかというポイントは創意工夫の見せ所でしょう。音楽作品を詳しく評価するにあたっては、その“時間”を一通り聴いてみないことにはわからないものですが、曲の始まり方と終わり方は位置的にも記憶に強く残るものです。
こんな音楽が良い/悪いということを少ない例を挙げて断じることはできませんし、それは愚かなことでしょう。しかし、どのような例があるかを知り、作曲家たちの創意工夫の跡を感じておくことは、その後に未知の音楽に出会った際にも「作曲家はこんな工夫をしたのではないか」ということを考える力を育むと思います。
というわけで今回は、榎本が個人的に気に入っている曲の始まり方/終わり方を紹介していこうと思います。
【始まり方編】
・単線律の開始
導入が伴奏や和音を伴わない一本の旋律線によってなされる作品がいくつかあります。それによって聴き手を音楽に引き込むのが非常に上手いと個人的に思っている作曲家がドビュッシーです。
ピアノのための《前奏曲集》における、一般に人気が高いであろう2曲を見てみましょう。『亜麻色の髪の乙女』と『ヒースの茂る荒地』の冒頭の単旋律は、上端はソ、下端はラという間で、どこか五音音階を想起させる音使いです。
これに似たものとして、晩年の《6つの古代の碑銘》も挙げることができます(こちらは後の話の伏線です)
またオーケストラの作品でも《牧神の午後への前奏曲》がフルート一本の単線律による開始です。こちらは半音階的かつ全音音階的要素も備えた不思議な旋律となっています。上端がCis、下端がGと増4度を成しているわけですが、調性の突破を試みるドビュッシーのチャレンジが見えるようです。
のっけからドビュッシー推しで来ましたが、そんなドビュッシーの前に、この手法で世界中の聴衆の心を鷲掴みにしている例を誰しもが知っているはずです。それこそがムソルグスキーの《展覧会の絵》の冒頭です。これをラヴェルは編曲の際にトランペット一本に割り振ったのでした。
伴奏や和音を伴わない一本の旋律に、聴衆の耳は集中します。ここで聴衆の心を音楽に引っ張り込むことができれば、その後の音楽も集中して聴かせることができるわけでありまして、印象的な旋律を書ける作曲家にとっては非常に役に立つ手法と言えましょう。
・さまよう序奏
メインとなる音楽が出てくる前に序奏を付けることがあります。J-POPだって歌が始まる前にイントロがあることは多いでしょう(敢えてイントロを作らないことで強調する手法もありますが)。
魅力的な序奏は何か…という話はかなり主観が入るものですから、ここでは客観して特徴的で、面白いと思うものを挙げようと思います。それが、主部の開始点を意図的に曖昧にするタイプの序奏です。
みんな大好きラフマニノフの《ピアノ協奏曲第2番》の序奏がこちら。
和声を考えると、この序奏の和音はずっとⅣ度の変形でできているのです。半音ずつジリジリと変わっていくために方向性があまり掴めず、遠くから近付いてきた鐘の音が眼前に現れきったところで遂にc-mollの主和音に到達して主部が始まるのです。目的地が明確に示されていないからこそ味わえる興奮という面があると思います。
これをやったのは、なにもラフマニノフが最初ではありません。ショパンの《スケルツォ第3番》cis-moll やリストの《ピアノソナタ》h-mollは、その主部とはまるで関係の無さそうな音使いで始まるどころか、ちょっと調すら確定が困難なものです。
【終わり方編】
・冒頭の回帰
物語の最終回で第一期のOPテーマが流れると視聴者は盛り上がるものです(喩えがオタク?)。クラシックでもそのような手法が存在しております。
まずは先に挙げたドビュッシーの《6つの古代の碑銘》のクライマックス。冒頭のテーマが回帰し、この作品の小宇宙を総括します。
これは演奏時間の長い作品の統一を図るために効果的です。
ヴァーグナーが彼の長大なオペラや楽劇でライトモティーフを用いた目的はここにあるでしょうが、これが結果的に「冒頭に出てきたテーマがクライマックスで回帰する」という胸熱演出に繋がるわけです。以下の譜例は『トリスタンとイゾルデ』の最初と最後、上行する半音階のモティーフが聴こえてきます。
ついでにベルクの《ピアノソナタ》のように回帰がしつこい例も紹介しておきますね。発想は同じことなのですが、程度が強いとでも言いましょうか。
・解決しない終止
和声法の復習ですが、Ⅴの和音はドミナントの機能を持ち、トニックの機能を持つ和音に進行したい力が働きます。長調はソティレ、短調はミスィティでありまして、導音たる長調のティ、短調のスィが含まれていることからも次の音が推測できるでしょう。そこに第7音を加えたⅤ7の和音、すなわち属7の和音は長調でソティレファ、短調でミスィティレとなり、短7度や減5度の音程の響きによって、トニックに解決したい力がただのⅤの和音よりも強く働きます。フレーズの半終止にVが使えてⅤ7は使えないとされる根拠はここにあります。
が、シューマン夫妻がこの効果を逆手に取って用いています。ロベルトの《詩人の恋》より『美しい五月に』、クララの《6つの歌曲》より『淑やかな蓮の花』はそれぞれ属7の和音で終止しています。前者は次の曲へのattacca(次の曲へ切れ目無しに入る)と考えられなくもないですが、後者は終曲です。主和音に解決したい和音が解決せずに終わることで、めでたしめでたしで終わるのではなく、強烈に後味を残すことができます。多用はできない手法ですが、ここぞというところで使うと演出効果は抜群です。
ちなみに、リストも《5つのピアノ小品》において同じようなことを減7の和音で決行しています。機能はやはりドミナントなのですけれども、属7の和音よりも感傷の強い響きがします。
なぜか解決する終止
変なタイトルですが、つまりは調性的ではない音楽がなぜか調性的解決をみるパターンです。
この話になったらシェーンベルクの名前を挙げないという選択はありません。彼がアメリカに渡ってから12音技法で書いた《ナポレオン・ボナパルトへのオード》と《ピアノ協奏曲》をそれぞれ見てみましょう。コードで言えば、前者はE♭、後者はCM7に終結します。
そもそもこの2作品は12音技法で書かれているといっても響きが全編に渡って調性的であり、きっとこの終わり方も意図したものでしょう。特に《ナポレオン・ボナパルトへのオード》がEs-Durの主和音に終結することについて、「ナポレオン」「Es-Dur」という共通点から、とある別の作曲家の作品を想起できる人は多いと期待しています。
そして実はもう一人、あからさまに調性的終止を行う人が同時代にいました。そう、シェーンベルクのライバルであったハウアーです。シェーンベルクとは別に独自の12音技法を考案したハウアーですが、実は彼の作品はやたらと明快な和音で終わることが多いです。特に長7の和音への偏愛は特筆すべきものでしょう。例として《ヘルダーリンの言葉による標題のピアノ曲集》を挙げておきますが、大半の曲において終わりの和音は長三和音か短三和音です。
この他にも、彼が後にライフワークとして書いた《十二音遊戯》のシリーズは長7の和音に始まり長7の和音で終わるものがよく見られます。
あとはベルクの《ヴァイオリン協奏曲》なんかを挙げてもいいのですが、あそこまで調性を押し出されると調性的終止も予想内になってくるでしょうから今回は割愛します。
今回挙げた例は僕が個人的に好きなものというだけです。他の音楽家たちに聞けば、また違った面白い始まり方/終わり方の例を挙げてくれるでしょうし、自分で色々な音楽を聴き漁って見つけていくこともできます。
音楽の始まり方と終わり方は、作曲家たちの演出力の見せどころであるわけです。興味をもって、このような工夫を探っていくのも面白いことですよ。
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