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執筆者の写真Satoshi Enomoto

【ソルフェージュ・雑記】転調における階名

 調性音楽において、ある音を中心音とする音階組織のことを調と呼びます。ハ音を中心に長旋法を形成しているものをハ長調(ハ長ド旋法)、ニ音を中心に短旋法を形成しているものをニ短調(ニ調ラ旋法)…などと表します。そして、楽曲の途中である調から別の調(専門用語では先行調 / 後続調と言います)へと調が変わることを転調と言います。


 転調のやり方は音楽において色々ありますし、作曲家ごとの手法や癖のようなものが見られるので一概にこれという説明をすることはできませんが、概しては先行調と後続調に共通の固有和音の役割を読み替えたり、半音階的関係にあるそれぞれの固有音を繋げたり、借用和音を用いたり、あるいは異名同音を読み替えたりして行います(詳しい手法は和声法や楽曲分析の勉強で知ることができます)


 長調や短調同士、あるいは長調と短調の切り替わりにしても、その時点までに先行調で用いていた音階組織は崩れ、後続調の音階組織が新たに形成されます。単に音高がシフトするというのみならず、音色などの演奏の都合にも大きく影響を及ぼしますので、結果的に楽曲には変化の彩りがもたらされることになります。


 

 ところで、階名(いわゆる移動ド)で楽譜を読むことに対して言われる批判の一つに「移動ドで読むと転調が面倒である」というものがあります。


 確かに階名で読む場合、転調した場合には階名の読み替えを行う必要が出てきます。結果的に見れば、ハ長調のハ音はドであり、ヘ長調のハ音はソであり、ト長調のハ音はファと変ニ長調のハ音はティとなります。転調に際して、物理的に同じ音高である音の呼び名が変わることを指して「面倒である」という批判をしているのだと思います。


 しかし実のところ、なにも "何調におけるハ音の階名が何" などといちいち覚えてはいません。それは結果でしかないのです。ト長調のト音がドに聴こえるように歌ったらファにあたる音高がハ音だった、というだけの話なのでありまして、特に実施にあたって楽典的・音楽理論的に難しいことは考えていないのです。むしろどの音が主音や導音などとして体感されるかという感覚の方に重点があります。


 音名を「個人名」、階名を「演じる役」に喩える説明は理解しやすいと思っております。演劇作品として意識されるのは前者よりも後者でありましょう。転調とはそれぞれの音の担当する役がシャッフルされる現象であるわけです。階名の読み替えが成功するということは、このシャッフルが鮮やかに完了するという、ある種の快感を伴う行為でさえあるのです。階名で音楽を捉えていくことの本当の楽しみは、凝った転調をこなすようになってから、と言うことさえできるかもしれません。


 階名を用いず、音名で攻略してしまうということは出来なくもありませんし、それでもなお転調を感覚として体感できる人は存在します。しかし、音名のみに着目し続けると「先行調が崩壊し後続調が成立する」ということを楽典的に紐付ける必要が出てきます。階名よりも理屈を経由するぶんの手間が多いと言うこともできるかもしれません。ただ、このような場合ならまだ転調を意識することはできるでしょう。


 問題は音名を単音認識で拾い、一つ一つの音符を別個に音に変換するやり方に馴染んでしまう場合です。こちらの場合には、転調はおろか、調というもの自体が認識されないかもしれません。音楽を感じる上でよろしくないであろうことは目に見えるでしょうが、しかしこれはネガティヴな意味で "楽" であるという落とし穴を備えているのです。音符一つ一つを音一つ一つに、もっと言えば演奏の動作や操作一つ一つに変換するという作業においては、楽典や音楽理論を一切気に留める必要が無いのです。「弾けること自体が楽しいならそれでいいじゃないか」と言われてしまえばそれまでなのですが、どうにもそれは音楽をする上でより重要な部分を削ぎ落とすものであるように思えてならないのです。


 

 音楽は工夫されて面白いものであればあるほど、より多くの取り組む労力を必要とします。転調などというものは音楽を面白くするための面倒なトリックであるわけです。階名で歌ったら先行調から後続調への読み替えが面倒かもしれませんが、それは音楽に必要な(しかもたった少しの)面倒なのです。面倒であることを避けようとして音楽の面白さを味わえないのは損なことかもしれませんよ。

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