昨年から僕は合唱集団EARTHという企画合唱団の伴奏者を務めています。一年ごとに決めた組曲に取り組むスタイルの合唱団でして、その期ごとにメンバーを募集するという形態を採っています。なるほど、歌いたい組曲の時だけ参加するという選択肢があるわけですね。
そういうわけで、僕が伴奏を引き受けた組曲は上田真樹『夢の意味』です。この伴奏を引き受けるまでは、組曲の存在は知っていて一部の曲だけ聴いたことがある…という状態でした。僕の周りの同世代の合唱人の間では根強い人気のある曲なのではないかと思います。だからみんなもっと奮って参加してくれというのが本音ではあるのですが。
さて、合唱集団EARTHはジャンニこと鈴木智士さんの指導の下、日々練習を行っています。ジャンニさんや参加メンバーの皆さんがこの組曲についてどのような考えや思いを持っているかということは僕としても気になるところですが、ここではそれはさておいて、僕個人のこの組曲の受け止めを書いていきたいと思います。合唱集団EARTHとしての見解ではないので、その点はご承知の上でお読みください。
組曲『夢の意味』は、組曲『鎮魂の賦』と並ぶ上田真樹先生の出世作にして代表作の位置にある作品でしょう。作詞は林望、組曲は5曲から構成されます。
1. 朝あけに
2. 川沿いの道にて
3. 歩いて
4. 夢の意味
5. 夢の名残
組曲のタイトル曲は終曲ではなく第4曲にあります。そういえばやはり組曲『終わりのない歌』でもタイトル曲は終曲ではなくその一つ前の曲として位置していますから、上田真樹的構成の傾向とも言えるのかもしれません。
合唱集団EARTHでも早い段階から話に挙がっていたこの組曲の面白い特徴が、1曲目で「ゆめのような/うつつのような」という詩を伴って出てきたメロディが、第3曲と終曲で回帰するという点です。これをEARTHでは「伏線回収」と呼んでいましたが、ではこのメロディの再現にはどのような意味や効果があるのかということも考えてみたいと思います。
とりあえず順番に見ていきましょう。
1. 朝あけに
嬰ヘ長調 Fis-dur というなかなか珍しい調が主調に選ばれています。この調の他の有名な曲を挙げると、例えばベートーヴェンの《ピアノソナタ第24番『テレーゼ』》、ショパンの《舟歌》、カウエルの《富士山の白雪》といった例が浮かびます。幻想的な性格の作品が多い調でしょうか。調性格が希薄になっている現代においてもそのようなイメージは崩れていないでしょう。あとはピアノとしても物理的に黒鍵だらけになるので手の位置が基本的に高く浮いていて、それ故にほぼ自動的に「ゆめのような/うつつのような」という音色が出てくれるという効果も期待できるでしょう。
最初のピアノの和音はただの主和音ではなく第6音が付加されています。いわゆる付加6の和音ですね。これもまたただの主和音よりも柔らかく温かみのある包容力をもった和音と捉えられるでしょう。マーラーの《大地の歌》の終結部、ベルクの《ヴァイオリン協奏曲》の終結部などにその印象を見出だすことができると思います。
この柔らかな付加6の和音の中で、3連符の2:1のゆるやかなリズムの揺れから音楽は始まります。合唱パートは臨時記号の山に苦戦することになるので「『ほのぼのとあかるむ』なんて余裕は無い!」と感じるかもしれませんが、ゆらゆらと弾いているピアノとしてはまさに詩のままの音楽をやっている気分です。
朝の時間帯の、半分起きていて半分眠っているような身体の状態・精神の状態は、「ゆめのような/うつつのような」状態なのかもしれません。夢と現実との境界の曖昧さを描くためには、臨時記号の多さや入り組んだ連符のリズムはやむを得ないということです。
中間部は変イ長調 As-dur というまた別の温かみのある調に移り、語り手は過去を回顧します。再び調号が嬰ヘ長調に戻るところ(実は戻った瞬間だけは嬰ハ長調 Cis-dur)では、回顧の世界の中での"朝あけ"の情景が描かれるのでしょう。そして重要な「ゆめのような/うつつのような」の旋律がここで初めて登場し、第1曲を締め括ります。第1曲は朝明けの揺らぎのリズムの余韻を残しながらフェードアウトしていき、第2曲へ繋がります。
2. 川沿いの道にて
この曲はかつての夏の終わりを回顧する歌でしょうか。軽やかな3拍子が若さを感じさせます。そういえば第1曲の子供時代を回顧する変イ長調の部分も3拍子でしたね。
転調を含む中間部を挟んでA-B-Aという典型的な三部形式が大まかな形式でしょう。むしろこの曲に関して最も重要な効果を持つ部分は、その三部形式を消化した後の終結部だと思います。「さめてもゆめは/さめやらぬ」と無伴奏で soli が歌うことによって、この曲による回顧あるいは若い頃の夢が、語り手の脳裏に残り続けていることを示すわけです。
3. 歩いて
ガラッと雰囲気が変わりましてニ短調 d-moll です。
拍子としては2/2拍子なのですが、冒頭部分は休符が多く、「これは2拍子で振ったらむしろ指揮としてわかりにくいのではないか…?」という懸念が抱かれるところです。練習時に、ある程度だけは4/4をカウントしながら確認するということをやってはいけないわけではないと思いたいところです。
ただ、確かに重い足取りを刻むためには拍子はどうしても2/2で刻まれる必要があるとも感じます。拍の間の動きがスムーズでない2拍といったところでしょうか。「ガッ……ガッ……」というイメージです。そして時折挟まる3/4拍子を半分に割るピアノの sfz は転びかける描写でしょうか。
メロディとしても増音程が所々にある歌いにくいメロディであると言って良いでしょう。しかし特定の部分は実際には減音程かもしれません。和音や旋法をヒントにしてメロディを捉えることが攻略法になると思います。
中間部は Allegro にテンポが上がります。「活発に」というよりは「感情が昂って」とか「激して」と考えるのが、この曲の場合は妥当かもしれません。「たちどまる」→「ふりかえる」→「おもいだす」→「かみしめる」と、後に行くにしたがってフレーズが8分音符1つぶんずつ切迫していきます。これも感情が昂っていく表現と捉えてよいでしょう。
この感情が agitato で爆発まで到達すると思われた瞬間、それは増三和音を伴う「なみだする」へと切り替わります。例えば怒りの感情が極まった時に静かに涙が流れてしまう経験などが皆様にもありますでしょうか。
音楽は Meno mosso となり、語り手の「なあ、これでよかったのか」と、"夢の名残"の「ああ、これでよかったさ」というやり取りが始まります。「これでよかったのか」という疑念はハ短調 c-moll、「これでよかったさ」という肯定はハ長調 C-dur やト長調 G-dur といった調設定によって対比されます。先にネタばらししてしまっていますが、この「これでよかったさ」と肯定してくれているのが、過去に見た"夢の名残"であることが「ゆめのような/うつつのような」のメロディで示されるのです。
人生の岐路に立った時に、自身が過去の夢を回顧する、あるいは過去の夢が自身の眼前に回帰する…というシーンを描くためのメロディ回帰(伏線回収)だと考えると、この書法にも説得力が増すでしょうか。
4. 夢の意味
イ長調 A-dur のアカペラから、この組曲のタイトル曲は始まります。そういえば第2曲もイ長調でしたから、この組曲を構成する各曲の調設定は、嬰ヘ長調→イ長調→ニ短調→イ長調→嬰ヘ長調というシンメトリーになっています。"うつつ"から始まって"ゆめ"を辿り、また"うつつ"へと帰ってくるような調設定と捉えても面白いかもしれません。
組曲をここまで演奏してきた中で繰り返し顔を出した "夢" の意味に思いを馳せる位置でしょうか。
「朗唱風に」と指示される中間部では、ドリア旋法のような音組織を織り交ぜて浮遊感のある音楽を作ります。32分音符のような細かい音価の音符を交えることによって個々の旋律自体の存在感を増強しているわけですが、詩として特に伝えたい部分がここに該当するのかもしれません。
音楽は切れ目無く終曲へ流れ込みます。
5. 夢の名残
第1曲と同じ嬰ヘ長調が設定されます。夢と現実との境界に戻ってくるという象徴でしょうか。「組曲の主調に戻ってきただけだろ」と言われれば外面的にはその通りなのですが、別に主調に戻らなければならないなどというルールは存在しないわけでして、それでもなお組曲の冒頭に現れた調に戻ったということは聴き手に何か働きかけたいものがあるからでしょう。この第5曲冒頭では、実は調のみならず、和音も第1曲と同じものが用いられています。
導入が終わると「ゆめのような/うつつのような」の旋律が回帰しますが、この曲においてはそれがかなり大きな形に発展して繰り返されます。過去からずっと時折姿を見せ続けた "夢" を反芻し噛み締め、語り手の感情の昂りはクライマックスを迎えます。
第4曲で「いきているとおもっているのは/じつはゆめかもしれない」と歌っていましたが、第5曲で「せめてはゆめよ/さめるなゆめ」と、遂に "ゆめ" と "うつつ" は一体となったのではないかと思います。ゆめと共に、うつつと共に生きてゆくわけです。
第1曲の冒頭に出てきた、夢と現実の境界に立つような音楽が戻ってきて、組曲は終わりを迎えます。最後の和音は主和音(ドミソ)に第6音(ラ)と第9音(レ)を加えたものであり、終止感は薄められます。むしろ停止する終止ではなく、永遠に彼方まで続くための余韻的終止を狙ったものと考えてよいでしょう。ドビュッシーが『版画』の《塔》の結尾で書いた和音です。
現実に完全に帰るわけではなく、しかし夢に没入したままでもなく、そのどちらとも手を繋いだままにその境界を歩んでいくことを決めるまでの精神の旅を辿るのが、この組曲の筋書きだったのかもしれません。
このように考えてみると、ただ単純に「同じメロディが何度も出てくる」という構成の特徴というだけではなく、実際にその書法が聴き手に投げかける意味も与えられているような気がします。
聴いた印象に反して歌う方はかなりの体力勝負を強いられるため、「どうにか歌うだけで精一杯!」みたいなことに陥る危険性は十分にあり、そうなってしまうと少し勿体無いでしょう。ぜひとも、組曲の構成などにも意識を向けられるようにしたいものです。
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