日本だけかどうかはわかりませんが、ピアノの勉強というと同じ曲を長い期間じっくりと練習するスタイルの方がイメージされることは多いかもしれません。実状としてはむしろ自分の弾きたいものやら頼まれたものやらで様々な曲を同時進行で練習していることの方が多いです。
しかしそう思われるのも無理は無いと感じます。ピアノの学習と言えば、延々と味気無い練習曲をひたすらに弾かされることが殆どでしょう。曲らしい曲を弾くようになってからも、じっくりと長い時間をかけて取り組まれることが多く、とりあえずサッと読んでパッと弾いてみましょう!というような訓練は後回しにされがちです。音大生でさえ初見の利かない学生がある程度存在するのは、ここにも要因があるでしょう。
もちろん、一つの作品への取り組みに長い時間をかけること自体は一辺倒に悪いことではありません。じっくりと音楽に向き合ってその考えを深めていくという経験を持たないのも、それはそれでよろしくないのです。「長い時間をかけて向き合う曲」と「たくさん読んで演奏するための曲群」を用意すれば、両方の経験を積むことはできるでしょう。
そのようなことは前提としまして、話題に上げたいのは、演奏家が「ずっと同じ曲ばかり弾く(ずっと同じ曲目でコンサートを回そうとする)」ということについてです。実際にはクラシックの演奏家に限らない現象かもしれませんが。
確かに演奏家としては殆ど誰もがある程度特定のレパートリーを持っているものです。この人と言えばこの曲!というイメージはブランディングなどにも活用できるものでしょうし、「これだけは絶対に高品質のものを提供できる」というものを持っているのは演奏家としては強みでもあります。
ところが、それがレパートリーだからといって兎に角「レパートリーしか弾かない」という演奏姿勢を取るのは怠惰ではないかと考えるところであります。他人の演奏姿勢に文句を言う資格は無いのですけれども、それは特定の木だけを立派に管理して森全体が荒涼としているかのようなことになりはしないでしょうか。
実のところ、そのような振る舞い方をすることはむしろ意図されている節さえあると思います。学生時代とは特定の作品に時間をかけて取り組める貴重な時期でありまして、その期間にとりあえず聴衆に好まれそうな曲を一通り網羅してしまえば、その蔵出しの組み合わせによって "ごく典型的なクラシックのコンサートプログラム" は組み上げることができるのです。
売る品物が準備できているのはいいとしても、その殆どが学生時代の作り置きともなると賞味期限が気になるところです。音楽は生涯に渡って掘り進めていくものであると考えているのですが、掘り進めずとも商品自体は用意できてしまうのが歯痒い点であります。聴衆がより(作品についても演奏についても)多様な音楽に出会うためには、まずは音楽家が率先して多様な音楽を掘り進めねばならないでしょう。
「仕事として演奏をするようになると、学生時代のように時間をかけて新しい曲に取り組む時間なんて確保できないぞ」という言葉を聞くこともあります。それは確かにその通りで、学生時代の比ではないほど多くの曲に同時に関わることになりますから、どうしても1曲1曲にかけられる時間は削られます。そのような状態の中で新たなレパートリーに挑戦するのは至難の業でしょう。しかし、至難の業だからといって作り置きばかり提供することを肯定しようとは思えません。
同じ曲を演奏するにしてもそこに深化が見られるか、あるいはレパートリーの範囲を拡大していくかでもしなければ、クラシックのコンサートは博物展以上の意義を失ってしまうでしょう。むしろ単なる博物展であった方がよいと考える保守的な音楽家や聴衆の存在も認識してはおりますが、それによって権威主義の顔をして音楽をやることになるのは嫌だなぁというのが個人的な考えです。
伸びきった麺のような音楽を繰り返してはいけないと思います。どんどん新しく作ったり、作り直したりしていく姿勢を大事にしたいものです。
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