
Lutherヒロシ市村 第14回リサイタル『シューベルト《美しき水車小屋の娘》』を聴いて来ました。ピアニストは伊藤那実さん、和訳とスライド制作操作は演出家の三輪えり花先生というお馴染みになりつつある豪華布陣です。
批評というほどのものは名乗れませんが、興味深かったポイントが複数ありましたので、感想という体で書いていきたいと思います。
前回のリサイタルは同じくシューベルト《冬の旅》の超低声移調版を用いた公演であり、そちらは超低声版であるということ自体はあまり感じさせない表現のコントロールが冴えたものでした。
一方で、こちらの《美しき水車小屋の娘》では超低声移調版を用いたことによる音楽的影響が様々な方向に見られたことは、ここで挙げておきたいと思います。
1曲目'Das Wandern'の歌が始まる前、もはや最初の2小節を聴いただけで、この超低声版の異様な部分を実感することになりました。いや、むしろこの1曲目こそが最も異様であったと言えるかもしれません。
その原因は歌ではなくピアノの方にあります。一般的にピアノは全て一様な音色であると思われているかもしれませんが、実際には音域によって音色が異なる楽器です。伴奏を下方へ移調したことにより、ピアノの低音域にある銅線の巻かれた太い弦を叩く音が自然と鳴ってしまうようになっていたのでした。伊藤さんがかなりの緊張感をもって音色を統御していたことはすぐに感じられました。
実は超低声版の楽譜上では第1曲のピアノパートは下方ではなく上方へ移調されています。上方に移調すると声とピアノの音域的位置関係が変わってしまうため、この公演では下方へ移調する判断を決めたようでした。どちらの方が音楽的に望むものであるかを判断することも演奏者の役割でしょう。もちろん、歌い手本人が意図する表現を実現しやすい高さが選択されるわけでして、今回の公演のような低音域の方がLuther先生にとっても音楽的安堵感や「懐の深さ」「温かさ」といったものを表現しやすかったと想像します。
《冬の旅》と比べると、《美しき水車小屋の娘》は有節歌曲の割合が多く含まれます。繰り返し記号で書かれているからといって同じように繰り返すだけでは、物語に基づく音楽的内容を無視して音符だけを追うようなものです。テキストに応じて様々に表現を加味することは前提と言えるでしょう。今回の演奏でも、それぞれに表現を変えて繰り返していることが明瞭に聴き取れました。
表現における計画を立てるという点では、もしかすると有節歌曲は通作歌曲よりも労力を要するかもしれません。とにかく大袈裟に表現を加えればよいかと言えば、もちろんそうではありません。大きな変化が欲しければ有節的な詩であったとしても通作歌曲に仕立て上げることは可能です。敢えて有節歌曲になっていることを踏まえた上での節度ある表現の加減が必要となるでしょう。本公演ではこの点も考慮されていたと感じられました。
人間の声を用いた音楽は声色を様々に変化させることができます。楽譜に書かれる音の長さや高さを追うこととは異なる観点と言ってよいでしょう。その箇所をどのような声色で歌うかということもまた音楽の聴かせどころであると言えます。
さて、《美しき水車小屋の娘》には様々な人物の視点や台詞が現れますね。主人公の粉挽き職人と小川だけかと思いきや、水車小屋の娘の台詞も少しだけあります。皆様ご存じの《魔王》で「語り手」「父」「息子」「魔王」が演じ分けられるのと同じように、《美しき水車小屋の娘》でも演じ分けが求められます。しかもこちらの配役は「粉挽き職人(男性)」「水車小屋の娘(女性)」「小川(無生物)」等ですから、誰が歌っても相応にハードルは高いでしょう。
今回のコンサートで個人的に非常に印象に残ったポイントの一つはここでして、箇所としては多くないものの、水車小屋の娘の台詞の部分の歌い方が本当に娘と判る表現になっていたのです。もちろんバスの声なのですがあれは確かに娘でした。技術的にどうやっているのかはわからないのですが、歌舞伎や文楽などで男性が女性の役を演じるのを観るのと似た感覚を覚えました。同様に、第19曲'Der Müller und der Bach'における、悲痛な粉挽き職人とそれを受け止める小川の歌い分けも見事であったと思います。
歌い分けの話で言えば、登場人物の歌い分けだけでなく、物語の経過による歌い方の変化も特筆すべきポイントでしょう。第14曲'Der Jäger'での狩人の登場に対して激昂してから粉挽き職人の表情は大きく変わります。嫉妬・怒り・悲しみ・絶望といった類いの感情に支配された粉挽き職人の声色は圧力を増していたように聴こえました。愛の成就から愛の喪失という大きな転換もこの作品の技術的難所の一つなのでしょう。比較対象として、《冬の旅》は最初から愛を喪失しているのでむしろ行き先は見えていますし、同様に愛の成就から喪失を描いているはずのシューマン《詩人の恋》などは喪失さえも美化されていて転換する感覚は薄いように感じます。今回この転換における表情の変化に圧倒された聴き手も多かったのではないでしょうか。
第18曲'Trockne Blumen'の最後にも面白い表現がありました。'Der Winter ist aus.'と歌うところの、まさに最後の'aus'がまるで本当に萎れるように儚く不安定に歌われたのでした。楽譜上では四分音符が書かれていますので、それに見た目通り従うのであれば、強くとはいかないまでも存在感のある音として歌われる可能性もあるでしょう。しかし敢えて萎れるような散るような歌い方をすることによって、むしろ粉挽き職人の心の中で何かが折れてしまったように聴かせることができるということがわかります。ある種演劇的な演出も含まれているかもしれませんし、これはこれで面白い表現だと思います。これを皆が皆真似するようになったらしつこく感じるでしょうけれども…
まとめの話にも繋がるので、先に和訳字幕スライドにも言及しておきましょう。外国語の曲を歌うにあたってステージ上に和訳字幕を表示すること自体はクラシックでは珍しいことではありません。ただ、その多くの場合は黒地に白字で表示するだけのものでしょう。「和訳を表示する」という役目はそれだけで果たせます。
しかしLuther先生のリサイタルでは三輪えり花先生こだわりの歌詞スライドが表示されるのが恒例です。前回の《冬の旅》では曲の情景イメージも込みのスライドが展開されたわけですが、今回は前回にも比べて情景が色鮮やかであったように感じます。《美しき水車小屋の娘》自体が色鮮やかな自然の情景を舞台に展開する物語であることは十分に伝わったことでしょう。
色鮮やかな自然は恐らく《美しき水車小屋の娘》の重要な要素であると言えるでしょう。愛の喪失の苦しみを負った粉挽き職人は小川へと入水します。しかしこの連作歌曲はこの個人的な死を描くだけの物語ではないと思います。入水した粉挽き職人を、小川=自然は優しく受け止めます。傷付いた人間に、自然が安息をもたらすのです。確かに粉挽き職人は物語の上で死を迎えますが、自身を粉挽き職人に重ねた聴き手は同時に擬似的な死を体験しながら、自然がもたらす安息を得て、死を超えた先の再生を迎えます。
この作品の大部分で粉挽き職人を演じてきた歌い手は最後の曲でまるごと小川=自然を演じます。人間の再生に向けての安息を与える自然であり音楽である存在になることを歌い手は引き受けるのです。一聴き手として今回のこの曲の演奏は擬似的に死にながら休みながら聴くことができましたから、則ち良い演奏であったということでしょう。
アンコールは2曲、シューベルトのお馴染みの《鱒》と《音楽に寄す》でした。
《鱒》は「小川」繋がりで選ばれたのだろうとは思いますが、直前で死の安らぎを味わっているためか、鱒や釣り人の生命感のなんと生き生きとしていることか!と、聴き慣れたはずのこの曲がかつて無かったほどに鮮やかに聴こえました。《鱒》の元の詩は鱒を女性(die Forelleは女性名詞だから?)に喩えて「悪い男に引っ掛かるなよ」と忠告する詩なのでメインプログラムとも若干関わりがあるようにも思えますが、シューベルトは当該部分をバッサリ削っていますし、むしろそこが無いお陰で自然の中の鱒と人間が見えるのでしょう。
次回のリサイタルは来年ではなく再来年というアナウンスが為された後、《音楽に寄す》にて終演でした。帰路では「空はなんと広く拡がっているのだろう」という《美しき水車小屋の娘》の最後の歌詞をじっくりと反芻していました。
Lutherヒロシ市村
第14回リサイタル
『シューベルト《美しき水車小屋の娘》』
後日配信視聴申込フォーム↓
僕の感想は上にずらずらと書いてきましたが、やはり言葉は言葉でしかなく、この演奏がどのような音楽であったのかはどうしても聴いていただかなければ伝わりません。
録音録画配信は非常に準備が大変なものでして、やらなくていいならやらない方が公演制作者としては楽だったりするのですけれども、なんと本公演は録画の後日配信が用意されています。僕の拙い文章を読んで気になった方はぜひお申し込みの上ご覧いただければと思います。
いつも有難うございます。一曲目、自分的には低声用(全音上)から、超低声用ではいきなり1オクターヴ近く上がってしまうことに違和感を覚えました。
因みに超低声用より半音高いバージョンもありますが、低い方で弾いています。
https://youtu.be/nD456PVi7RQ?si=v0vLolaa9OvG45db