「移動ドを身に付けるための道は長く険しく、近道はありません」という言葉が話題に上がっているようです。既に複数の指導者が指摘している通り、"険しい" という言葉には語弊があると言えるでしょう。移動ド唱、すなわち階名唱自体は、意図的に複雑に作られた課題でも出てこない限りはシンプルなものであるからです。
ただ、階名の習得を "長く険しく、近道は無い" とイメージする事情や理由はあるはずです。それらを考えつつ、いくつかのTips的なものも書いてみたいと思います。
①
まず階名唱に限らず、何らかの技術習得にそうそう近道は無いものです。ここにおいて一般に近道と思われがちなものは、本来本当に不必要な遠回りを避けているか、本当は必要な部分をカットしているかのどちらかかもしれません。
階名唱に興味があるということは、前提として音楽に興味があるということでしょう。階名唱に限らず、音楽自体が一朝一夕で完成するものではありません。むしろ高度な演奏技術の習得に比べれば、階名唱の習得は楽なものだと思います。"近道は無い" と言われても「まあ何事もそうでしょうね~」程度の話であるわけです。
ちなみに、音楽理論などにも興味がある人は階名唱をやっておくと "近道" ではないにせよ効率的に、そして感覚的に勉強が捗る場面があることは記しておきます。
②
これも階名唱に限らず、音楽の道は基本的に長いものです。音楽を深めれば深めるほどに、その先の音楽の深さが見えてくるのでして、それこそが音楽の楽しみの尽きなさであります。
階名唱についても例に漏れず、色々な旋律を歌ったり、声を合わせて和声を作ったりしていくと、次から次へと新たな発見が出てきてしまい、結局は果てしないものになるのです。道が "長い" というのはポジティヴな面であるわけでして、その途中でどうやら大抵のことはできるようになっている…といった習得の形であることを思えば、その道の長さ自体に怖じ気付く必要もないのかもしれません。
③
さて、話題の「険しい」という文言です。やってみると大概はそんなこともなく、ドレミのシラブルが一定の幅を保ち続けるのでむしろ色々な高さで旋律を捉えやすい人も少なくはないと思いますし、音の動きや音楽の構造に自力で気付くも増えてくる印象があります。
ではどうして "険しい" という感覚が起こるのかといえば、考えられる要因は既にドレミが音名として認識され、音高と強く結び付いてしまっているということです。つまりは固定ドと移動ドがどちらも同じシラブルであるばかりに自身の脳内で衝突してしまうということでしょう。
それまでに固定ドだった人が移動ドに切り替えるということは不可能ではありません。音名的に固定ドを使っていたとしても、音組織の聴こえ方が移動ドであり、後からそちらの方に合致するという例が無いわけではないからです。しかし、一度定着してしまった固定ドを移動ドに切り替えるときは、多少の感覚不安定期を経ることは否定できません。固定ドを手放して移動ドを掴むまでに滞空期間があるのですね。これを一部界隈では勝手に "迷子ド" などと呼んでいますが、恐らくこの不安定こそが "険しい" 脅威として感じられるのでしょう。この現象に対するその気持ちは理解できなくもないのです。
これについての拒絶を揶揄する声も無くはないわけですが、むしろ指導する側はその "迷子ド" 感覚に関する説明やケアに配慮することが必要でしょう。これもまた個人の感覚が関わっているため程度差がある上に早々に解決するという保証もできないのですが、ここさえ乗り切ればその後は "拡大された調性" などの森に突入しない限りは割と平穏な道が続くはずですし、音楽理論にも手を出せるようになるでしょう。
階名唱を "険しい" と言ってしまうとPRとしては逆に敬遠を招きそうであるという危惧はありつつも、人によっては "険しさ" を感じる場合もあるでしょう。学ぶ側も教える側も双方がそこに丁寧に付き合う姿勢を持つことによって、じきに乗り越えることができるでしょう。その後は長くとも険しくはありません。あまり恐れる必要も、恐れさせる必要も無いのであります。
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