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執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】"音源を聴く"ことの学びとその注意点

 演奏する曲の音源を要求する伴奏者の話をたまに聞きます。それも「音源を付けずに楽譜だけ渡してくるのは失礼だ」という言い方をする人もいるそうで、これに関しては全く失礼であるなどというマナーは存在しないということは言っておいてもよいと思います。おそらく渡されるものは楽譜だけでよい場合が多数派でしょう。


 

 ところで、この話が巨大化するのか、曲を勉強したり練習する時に「音源を聴くべきでない」派と「音源を聴くべきである」派の主張がぶつかる光景が見られます。それぞれの主張は実のところ、想定している場面にずれが生じているであろうことを留意しておいてもよいでしょう。どちらの一方を支持したとしても、極端な姿勢に着地する可能性が高いと思います。


 まず「音源を聴くべきでない」派は、楽譜から音楽を想像し構築するという工程を、音源を頼りにして等閑にする人が出ることを危惧しています。即ち、自分の力で音楽を考えること無く、最初から音源の真似だけで音楽を作ってしまうわけです。


 悪い意味で個性的な音源を表面的に真似してしまうことすらあり得ない話ではなく、だいぶ前に師匠から、サンソン・フランソワが演奏したドビュッシー《ピアノのために》のプレリュードの音源を生徒がそっくり真似して来たので諌めたという話は聞きましたね。はい、勢い余っているあの演奏です。僕でも諌めると思います。これは極端な事例としても、楽譜を丁寧に読もうとしないという事態が導かれるのであれば、それは音源の使い方が不健全であるように思います。


 一方で「音源を聴くべきである」派は、楽譜からの音楽の作り方を先人たちの演奏に学ぶことを想定しています。譜読みをなあなあにしてもそれっぽい音楽になるように音源を真似しよう、という邪な事例のことを応援しているわけではないのです。


 もちろん他の誰かが考えた音楽に学ぶことは非常に多いと言えるでしょう。音楽の全てが楽譜に書き起こせるわけではありません。記号化する際に抜け落ちてしまうものはあるのでありまして、演奏家たちが楽譜から何を想像し、その音楽に対してどのような考えを持ち、抜け落ちてしまったものをどのように補完して素晴らしい演奏に仕立て上げるのかを学ぶことは、自分自身が創造的な演奏をするために必要なことです。それは音楽を聴くことによってのみ可能な学びであります。


 これら二つを比べたときに、"音源を聴く" ということについての目的が異なることに気付くと思います。音源を聴くという行為は、音楽の作り方を学ぶことに有用である一方で、音楽を捉えて考えようとする過程を端折ることにも使えてしまうのであります。その方向を分けるのは、第一には本人の持つ目的意識であり、そしてそれを監督する指導者による意識付けでもあるでしょう。音源を聴いて「これをただそっくり真似すればよい」と思うのではなく、その音楽がいったいどのようなものであり、どうしてそのような音楽になっているのかを考え、自分の中で解き明かすことが求められると思います。この意識を保っている限り、聴く音楽の全てが学びとなるでしょう。


 

 音楽は聴けば聴いた分だけ経験値になります。それどころか、触れて体験した音楽の全てから学ぶことができるのです。音楽が勝手にどんどん教えてくれるからといって、そこに胡座をかかないこと…自分で音楽を掴もうとすることが大切ではないかと、僕は考えております。

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