10月14日、日本を代表する合唱作曲家である松下耕先生の還暦記念として、16人の作曲家が「信仰、希望、愛、そして友情」というテーマで書き下ろした全曲世界初演の演奏会『松下耕と世界 ─ 今を生きる作曲家の群像』が開催されました。Twitterでの抽選招待キャンペーンもやっていたので「これは合唱界隈に知らせねば! ついでに当たったらラッキーってことで!」とリツイートしたところ、幸運なことに当選しましたので、合唱オタクの友人を誘って演奏会へ足を運びました。
全曲の感想をこの後列挙していきたいと思うわけですが…ところで、僕はCD付きパンフレットのみならず、全曲の楽譜も購入しました。なんとCDで音楽を聴き返しながら、今度は楽譜も見ながら、演奏会を反芻することができるというものです。こんな至福は他にありません。他の演奏会も楽譜物販したらいいのにとさえ思います。
オルバーン《彼方より》
この曲で印象的だったのは半音と増2度音程を含む強烈なメロディでしょうか。和音や音色は柔らかいかと思いきや、そのメロディが出てくる時には感傷や憧れを訴えるような表情が立ち上るように感じました。2拍子と3拍子が交代する混合拍子も特徴的です。作曲者のオルバーンさんはトランシルヴァニアの出身であるそうで、確かにコダーイらが採集した民謡のような音楽をもっと現代に推し進めるとこうなるだろうなという空気感もありそうです。
エシェンヴァルズ《大いなる秘蹟》
国ごとに単純に音楽性を分けられるものではないと思いますが、しかし北欧諸国の合唱音楽はその和音構成に特色があるように感じます。長2度や短2度音程を大胆に重ね、またクラスター寸前の密集配置を書きながらも、出てくるハーモニーは清澄さを感じさせるという、こちらにしてみれば魔法でもあるかのような書法です。それはこの曲でも発揮されていました。クライマックスでは光を放つような彩度も明度も高い和音が響きます。色聴でも持たない限り音楽は目に見えるものではないはずですが、その眩しさは伝わるものなのかもしれません。
余談ですが、YouTubeで合唱曲を漁っていて最近高評価を押した動画の作曲者がこのエシェンヴァルズさんでした。
ドゥブラ《命の樹》
男声6部による分厚い音響の堂々たる印象を受けます。クリアに聴かせるというよりは中身がギッシリ詰まった音響を作るにはどのように書くか…という面で参考になりました。それがこの曲の生命感に繋がっているのでしょう。
パミントゥアン《信仰、希望、愛、友情》
流れるようなピアノに乗って歌い始めるメロディはオクターヴ跳躍が祈るような、しかし大袈裟すぎない情感を演出します。この直前に《命の樹》を聴いているために音響が薄い印象を受けてしまいますが、メロディの描写力は決して劣るものではないでしょう。ピアノも相俟ってロマンティック全開の部分があるのも美味しいところでしょう。男声合唱が高音のパワーコードに消えゆく書法の美しさも実感できました。
ミシュキニス《空の4つのきらめき》
児童合唱と思って侮るなかれ。作品の感想もさることながら、みなみ野キッズシンガーズの演奏技術に敬服したことを白状しておきます。児童合唱とは「児童の声による合唱」であって「一般児童レベル向け合唱」ではないということです…
第1曲で短調だった伴奏型が第4曲で長調になって回帰するというのも非常に刺さりました。複数の曲がきちんと物語として貫かれるのでしょう。
チョピ《立て、恋人よ、美しいひとよ》
"Rise up"(立て)という言葉がまさにだんだんと立ち上がるような始まり方にはこだわりを感じます。冬が終わって生命が復活を始めるという内容ですが、その通りに音楽が進行するにしたがって生命力を増大させていきます。ボディーパーカッションが入る変拍子はそのためのものだろうと聴いた瞬間に思ったのですが、後で買った楽譜を確認してみると、この部分の発想標語は "Spiritoso" でした。活力・生命力の表現とはこのことなのでしょう。
シサスク《宇宙の誕生》
ピアノ作品で既に存在は知っていたシサスクの合唱作品は今回初めて聴きました…が、タムタムの一撃とそれに乗った絶叫から始まる音楽ともなると、作曲者を伏せられてもこれがシサスクの作品だと判ったと思います(笑) たとえ和太鼓を使っていても、シサスク節は健在のようです。
絶叫のカオスの中から一つのハミングが浮き上がり、歌と太鼓が特定のパターンを繰り返しながら進行していく様子は、単純に宇宙形成の描写というよりも、かなりスピリチュアルなものであろうと感じました。
ブスト《時には》
「スペインからお越しの~」と紹介されたのに対して「バスクだ、スペインじゃない」と訂正していたのが少し面白かったです。
リズミカルな部分はやはり生命力の発露を感じます。ブストさんも「ひどい状況を克服しようとする人々のエネルギー」と説明しています。混合拍子や変拍子なんかを見ると拒絶反応を起こしかける人も少なくはないように思いますが、それは決して難しくするためにやっているのではなく、生命力の表現であるという場合も多々あるということを心に留めておくと、音楽への向き合い方も変わるかなと思います。
途中で印象的な転調があったな…という記憶がありましたが、これは「白い花」を想起させるホ長調というのが作曲者の談です。
ジェンジェシ《心の清い人々は、幸いである》
朗々と歌われるメロディが印象的な曲でした。買った楽譜が薄いと思ったら、テンポが非常に遅く、音符がめちゃくちゃ緻密に書かれていました。これはメロディを歌う側も非常にじっくりと咀嚼しながら充実感を味わえるのではないでしょうか。現代ではシンプルで効果的な書法か、あるいは斬新な音響が聴こえる書法が人気であるように感じますが、この曲は複雑でありながら力強い情感を秘めた作品であると思いました。
マジストラーリ《神の子羊》
流れ続けるピアノに乗って合唱がどんどん厳しい和音を重ねていきます。どちらかというと否応なしに運ばれていくような感覚でしょうか。それがあるために、ふと立ち止まった時の "miserere nobis" が印象的に響き、最後には平穏が訪れたことを感じられるのでしょう。
モチュニク《慈しみの炎》
女声8部合唱とは!?と恐れながら聴きましたが、納得を得つつも想像以上でした。ヒルデガルト・フォン・ビンゲンのテキストを用い、中世のオルガヌムのようなハモりを伴うメロディが提示されたかと思えば、用意された声部をフル活用したミニマルが走り始めます。フォーブルドンやコーリ・スペッツァーティまで聴こえてきますから、中世、ルネサンス、バロックの技法を現代のやり方で運用するというコンセプトの作品でしょう。過去と現代との接続の試行は、今や一つの課題でもあるのでしょう。
サボー《詩編第15編》
これもまた女声6部合唱とピアノのための作品。人間の声の音域はかなり限られているので、単純に縦に重ねようとしたらそこまで声部の数は多くならないはずだと思いきや、ポリフォニックに動かせばこれくらいは必要になるということでしょうか。ピアノが提示するミクソリディア旋法の旋律には、なんとなくヒンデミットの《マリアの生涯》を想起しました。クライマックスの "non movebitur in aeternum" でソプラノが音階を上昇していく部分には、果てしなさという意味でaeternumの要素を受け止めました。
アントニーニ《どの子も神を知っている》
重量級の曲が続いたので、シンプルでいて美しいこの曲が癒し枠となったように感じました。願わくば混声版も作ってください。歌いますから。
ウカシェフスキ《アロンの祝祷》
またもや二重合唱です。しかしただの二重合唱ではなく、英語とラテン語の二重合唱です。とは言ってもコントラストを強調するようなものではなく、むしろ淡々と静謐にハーモニーを聴かせてゆく音楽でした。
リーク《山の湧泉》
テノールの重音唱法に乗ってソプラノが各々のテンポで歌うという始まり方をします。これはまるで大自然の木霊のように響きます。この曲自体が自然のもつ激しさと美しさ、そしてそこに立ち上る神性をテーマにしていると受け止めています。音楽は冒頭にもあった木霊の中に再び消えてゆきます。
千原英喜《キリエ ─ ミサ・ブレヴィス "クアトロ・ラガッツィ" より》
ワーク・イン・プログレスの第1曲という立ち位置の作品。「キリエのテキストを普通そうは使わんじゃろ!」という音楽な気がしますが、「普通のミサではないし」というのが実際のところでしょう。ジョスカンを引用しつつ現代日本感覚で天正遣欧少年使節の壮絶な旅路を描くとなったらこうなるということです。もちろんキリスト教だって日本にはとっくに伝来しているわけですが、ミサ典礼文もジョスカンの音楽も現代日本にまで到達し、現代風音楽とミックスされることになるわけですから、まあ人類芸術史も面白いことが起こるものです。
このコンサートは、松下耕先生の還暦祝いとしてその友人作曲家たちが新作を書き下ろし、全曲初演をやろうというのが表面上のパッケージでしょう。しかしその実態は、松下耕先生が還暦祝いに便乗して2022年現在の世界の合唱音楽を自らの手の届く範囲で結集し、合唱ファンに提示することだったのではないかと考えています。現在の合唱音楽はどうなっているのか、何が起こっているのかを一度まとめようということです。
作曲をしようという時、極論すればそれは「自分の好きなように書けばいい」でしょう。しかしそれは自分の中ではの話であって、音楽界全体から見た時にそれがどのような立ち位置にあるかということは、自分自身の手では規定できないものです。それは一度全体を俯瞰しなければ見えてこないのです。
例えば、音楽史上でJ.S.バッハがどのような立ち位置にいるかということは現在(一応の形とはいえ)学ぶことができます。それはバッハの周囲やそこに繋がる前時代の音楽や作曲家が、俯瞰できる形でだいたいまとめられているからです。その視点が用意されるからこそ歴史的なバッハの評価ができるわけでしょう。そしてそのまとめから、バッハの次の時代にどのような音楽を書くことができるかということを考えることもできるのです。
松下先生がやったことはこれとほぼ同じです。松下先生のネットワークであるとはいえ、16人もの作曲家が現時点の音楽を書きました。それこそが現在の合唱音楽を俯瞰するためのサンプル16例であるということです。そしてそれは同時に、この後の合唱音楽にはどんなことができるかを考えていくための土台になるのです。
ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』という絵画がありますが、絵の中身はさておき、そのタイトルについてはあらゆることに適用して考えても損はないでしょう。
すなわち、"合唱音楽はどこから来て、今どこにいて、そしてこれからどこに行くのか" 。それを考えるためのひとつの基準となる演奏会でした。
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