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執筆者の写真Satoshi Enomoto

【演奏後記】都心の島で《In C》


 5/22(日)、お世話になっている酒井康志さん主催の《In C》の演奏に参加してきました。


 今回の場所は千葉県の浦安駅から徒歩10分の都県境にある妙見島。去年は鋸山に登り、中世のカンティガ集『モンセラートの朱い本』と併せて「祈り」としての演奏を行いましたが、今年はロシアによるウクライナ侵略戦争も起こりましたし、"人(の生活)"に近いところでやりたいというのが主催者の狙いであったでしょう。



 地元から浦安までの所要時間は2時間かからないくらいでした。京急が都営浅草線直通なので、予想よりは早く到着しましたね。



 

 酒井さん主催の《In C》参加はこれで4回目でした。ようやくなんとなくコツが掴めてきたような気もするところです。


 というのも、やはり《In C》のカギは「途中で全員が同じ断片の演奏に集まるとよい」というものでしょう。これは「しなければならない」というものではなく、ライリー自身も自然に成功はしていないのではないでしょうか。大抵は予め決めて意図的に実現するような項目です。これが去年の鋸山での時は、予め決めておいた断片(14)とは別のところ(42)で偶然実現したのでした。


 今回もある程度意図的にいくつかの目安は提示してあったのですが、回数をこなして馴れてきたのか、演奏メンバーたちが「それぞれの意思で重ねに行こうとしている」ということがなんとなく感じ取れるようになりました。それがわかれば「なるほど、そっちに向かうのね」などと流れを合わせてこちらも演奏できるようになるわけです。


 やはりこの《In C》の重要なポイントは聴き合うことにあるのでしょう。周りが今何をやっていて、それを受けて自分がどう振る舞うべきなのか。このような観点は、自分一人で演奏していたり、あるいは楽譜に書かれたプログラムを機械的に遂行するだけの合奏をしていたりするだけでは感じ得ないものでしょう。普段の音楽にそのような傾向がある人ほど、一度経験してみるとよいかもしれません。


 

 ミニマル・ミュージックというと、実は演奏者は大概ハードな演奏を強いられます。同じフレーズを延々と繰り返しているだけだと思われているかもしれませんが、それこそがかなり大きな負担なのです。メカニックな精密性を人力で実現することが求められるわけですから、ストレスは見た目より遥かに大きいです。


 しかしライリーの《In C》に関して、そのようなストレスはほぼ無いと言ってもよいでしょう。一応テンポがキープされるという点はあるものの、自分だけ途中で止まってもいいし、抜けて聴いていてもいいでしょう(また入る時には演奏中の断片に従いますが)。他の人とユニゾンになってしまって面白くないと思ったら拍を少し誤魔化して故意にずらしてもいいかもしれません。


 これらのことはライリーの《In C》だからこそ可能になることでしょう。各々が自分の余裕のあるやり方で、しかし周囲を思いやりながら演奏することによって、一体となった音楽が立ち上るのです。


 どうも最近の社会はあまりにもギスギスしすぎてしまっているように感じなくもありません。コロナ禍での社会の回し方というだけでも散々に衝突があったというのに、ロシアによるウクライナ侵攻によってさらに世界は不安定になってしまいました。


 自己を滅せよ!などとまでは思いませんが、自分の言い分を通すためには周囲に危害を加えることすら厭わないみたいになってくると、社会としての秩序は非常によろしくないでしょう。そこに一体感も何も無いわけであります。


 どうすればカオスにならない音楽を作ることができるのか。どうすればカオスにならない世界を作ることができるのか。1964年に書かれた《In C》ですが、その演奏体験から学べることは2022年になってもなお少なくないと思います。



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