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執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】"現代音楽"嫌悪の逸話を見て



 現代音楽ばかりの演奏に辟易した演奏家が演奏業を辞めた…という逸話の信憑性はさておき、確かにクラシックの演奏家や聴衆の中に、所謂 "現代音楽" と呼ばれる音楽に拒否反応を起こす人は一定数いらっしゃることでしょう。その存在自体はこれまでに何度も遭遇してきましたし、先述の逸話が上がった時にも "現代音楽" への辟易と嫌悪の声が複数見られたことは、別に驚くものではありませんでした。


 僕自身はショパンやリストを知る前にメシアンや黛敏郎の音楽に接して衝撃を受け、ズブズブと沼に嵌まったような人間ですので、この話題に言及するにあたっては全く中立ではありません。ただ、此度の "現代音楽" 嫌悪、あるいはそこまではいかない反対姿勢について、気になる節がありましたので考えたことを列挙しようと思います。


 

 まず "現代音楽" という括りが大きすぎて、意見を述べる人たちの想定している音楽がどんなものなのかが傍からはまるでわからない状態でありました。発端の逸話の時点でどうやら又聞きのようで、いったい何を演奏してきてそこまで思い至ったかさえ明らかになっていないのです。具体的な曲目が少しでもわかれば「えー、それは頑張れよ」とか「あー、それはそうね」といった細かい賛否のリアクションもできるはずなのですが、それが無いために、細かいことを全部引っ括めて 「"現代音楽"は嫌い」と普段から思っている人たちの姿勢表明の場にしかなっていなかったのがなんとも惜しいところであります。


 そもそも "現代音楽" とはいったいどこからどこまでの音楽を指しているのでしょう。音楽史として見た時には便宜上、時代を区切ることになります。しかし、実際に作られた音楽作品群を俯瞰すると、そこにはほぼ明確な時代の線引きはありません。20世紀の半ばまでロマン派色を濃く残すラフマニノフやR.シュトラウスは存命でしたし、逆に19世紀末や20世紀の初頭だというのにオーパーツじみた作品を残したサティやアイヴズのような作曲家もいました。同じように、いやそれ以上に "現代音楽" という呼び方は括りとして大雑把すぎるのであります。


 まさかシェーンベルクら新ウィーン楽派さえも含んで "現代音楽" と言ってはいないだろうなと思ったりはしますが、お店によっては "現代音楽" の棚にしっかりと配置されていることもありますから、そのように認識している音楽家がいても不思議ではないかもしれません。ならば、まだ著作権の切れていないストラヴィンスキーやミヨーももちろん "現代音楽" の仲間なのでしょうか。


 また逆に、 "現代音楽" の作曲家であると認識されているであろうメシアンやケージは、僕が生まれた1992年に亡くなっています。ということはもう亡くなってからそろそろ30年が経とうとしているということでして、30年前は果たして現代と言ってよいのか?などと日常生活感覚では思わなくもないです。


 まあそれはそれとしまして、逸話に出てきた演奏家が一体どのような音楽を演奏して、また此度の話題に言及した人たちがどのような音楽を想定して "現代音楽" を批難しているのかがわからないというのが個人的な感想であります。トータル・セリー、クラスター、実験音楽、電子音楽、アルゴリズム作曲、ミニマリズム、新しい複雑性、新調性、新ロマン主義…既に試行され、もうなんとなくタネがわかってきたものをざっくり挙げただけでも一枚岩でないことはわかっていただけることでしょう。もう "現代" と呼ぶほど最近の音楽でもありませんし、そろそろ "現代音楽" ではなくて様式別に呼んだ方がよいのでは、とは考えています。"現代音楽" という括りでまとめて嫌うと、大量の食わず嫌いが発生し、音楽への広い興味や好奇心を閉ざすことに繋がってしまうように感じます。


 

 この話題に連なるもう一つの話。百歩譲って「 "現代音楽" が嫌い」という意見があることは認めましょう。それは人それぞれの好き嫌いであります。他人の主観を変えようとまでは思いません。


 しかし "現代音楽" の作品を最初から「駄作」と呼ぶのは違うと思うのです。それは主観とは異なる観点であります。


 どの時代の音楽作品についても、その評価は到底たった数回の演奏によって下されてきたものではありません。バッハやベートーヴェンの作品が最初から不朽の名作として称えられたわけではなく、そこには彼らの作品を「素晴らしい作品だ!」と信じて演奏してきた演奏家たちの姿がありました。


 現在名作として知られる作品の中にも、当時は "わけのわからない" 作品として酷評を浴びたようなものさえあるのです。しかし、どんなに聴衆や批評家が低評価を下したとしても、その作品が後世に残るかどうかを決める権限は演奏家が握っていると言っても過言ではないかもしれません。つまりは誰が何と言おうと演奏し続ければよいのです。そうやってクラシックは残ってきました。


 それと同じことで、現代の演奏家が現代の新しい作品を最初から毛嫌いしていたら、それらの作品は後世に残らないのであります。作品が発表されてたかが少しの時間で評価が確定するわけがなく、むしろ長い時間をかけて何度も演奏されていく過程を経て「これは実は面白い曲なのではないか」「これはあんまり面白くない曲なのではないか」などと定まってきて、そしてようやく歴史の淘汰が起きるのです。


 この長い過程を渋ったことによって、後世の人々から演奏家たちの怠慢を指摘されても反論はできないでしょう。そして保守的なクラシック音楽界において、その時々の "現在" の音楽を演奏する姿勢はずっと前からあったものでもあります。その結果が、既に100年近く前の音楽さえ "現代音楽" と括る感覚であるとも言えるかもしれません。


 一見すればこの姿勢は "現代音楽" への嫌悪にしか見えないでしょう。ところが、どうもこれは歴史上の作曲家たちや、彼らに同調する演奏家たちの姿勢と食い違うように見えるのです。傑作か駄作かは若い世代が判断します。マーラーが「私にはシェーンベルクの音楽がわからない。だが、おそらく彼の方が正しい」と言ってシェーンベルクを応援した逸話は、心に留めておいてもよいでしょう。


 

 件の逸話のように、「あんな滅茶苦茶に聴こえる音楽、素人にだって弾けるだろう」と思う人は少なくないかもしれません。実のところプロフェッショナルの演奏家でさえも、初めて聴いた複雑な音楽については、手元に譜面が無い限りは「そういう音楽なのかな」と考えて気付かないこともあると思います。そのような場面に接したことは何度かあります。


 しかし、これは演奏した人間にしか実感できないことではありますが、一見滅茶苦茶に聴こえていても(本当に手抜きでなければ)きちんと音楽が吟味されているものです。一度でもその音があるべき位置にいるということが感じられると、出鱈目に聴こえていた音の群れの中に新たな音の繋がりが浮かび上がってきます。このことは大学時代にソルフェージュの先生方から言われたことではありますが、僕の中でも年々その実感が増しています。


 

 未知の音楽をいきなり受け入れられるような人の方が稀少であることは間違いないでしょう。決して何でもかんでもすぐに是とすべし!とまでいう話ではなく、受け入れるための手間と時間を惜しまないでほしいということなのです。現在を大事にし、未来を志向しなければ、"過去に留まり続けるクラシック" という袋小路を打破できないのです。


 伝統芸能的姿勢を批難はしません。しかし、創造的姿勢を重んじることは必要であると思っています。

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