依頼されて山田耕筰の《曼珠沙華》(読みは「ひがんばな」)の伴奏をすることになっています。山田耕筰の歌曲の中では有名な曲の一つですから、もちろん曲の存在は知っていますし、大学1年生の時にアンサンブルの授業で譜読みだけした記憶があります。
そして今回パッと読み直してみたわけですが、自分の耳に残っている記憶と自分の弾いている音楽との間に何か違和感を覚えました。確かに和声は山田耕筰らしく捻ってあるものの、そこまで複雑な曲というわけではないはずです。じゃあこの違和感は何だ?
要因はすぐにわかりました。
この曲は跛行リズムを大きな特徴としています。付点のリズムと音符が逆になっているので、逆付点などとも呼ばれていますね。おそらくこの曲の場合は、よろめくような重い足取りを表すものでしょう。
ところが僕の耳に残っていたのは、この跛行リズムが「16分音符 + 付点8分音符」から「32分音符 + 複付点8分音符」に寄ってしまい、鋭い音型になってしまっている演奏の音源だったのです。
確かにリズムが鋭い方が見得を切っているように聴こえてカッコいいのかもしれませんし、そのように鋭く演奏している音源を複数見かけるので、そのような暗黙の了解が共有されているという面もあるのかもしれません。
しかし楽譜を見ると、跛行リズムの16分音符の方にはテヌートも付けられています。暗黙の了解でリズムを鋭く演奏するという事例があったとしても、もしもそうであればさすがにテヌートを付けることは無いはずではないか…と考えています。さらには「>」のアーティキュレーションもあるわけで、これを音響上で実現するためには先の音がそんなに短いはずは無いとも思います。
これは想像ですが、山田耕筰的にはこの跛行リズムが鋭く演奏されてしまうことを予め懸念して、そうさせないためにわざわざテヌートを書き込んだ…という可能性もあるのではないかと考えました。他人の演奏を悪く言うつもりはありませんが、もしかすると跛行リズムが鋭くなってしまっている演奏は、山田耕筰が懸念した通りのものになってしまっているともかんがえられはしないかと思います。
この曲に限った話ではありませんが、日頃頻繁に演奏される曲はどうも音源の方が先に意識に上ってしまって、楽譜がその音源に寄せて脳内補完されてしまいそうになることがあるように感じます。自戒も込めて、既知の曲の楽譜を読み直すときには気を付けておきたいと思います。
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