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執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】運指に従う程度の問題:目的ではなく手段


 ピアノで「楽譜に書かれている運指(指使い)には従いましょう」という話は頻繁に言われていることであろうと思います。周りを見ていても「弾きにくいけれど、書いてある運指には従わなきゃ!」という声が時々聞かれますし、それに賛同する声も少なからずあることを認識しています。


 確かに「出鱈目レベルの運指ではよろしくない」という言い方をすれば、それは事実でしょう。音楽的にも身体的にも不具合のある運指をしてしまうことはもちろん不具合しか生み出さないわけですが、初学者でまだ指の使い方の実感すら湧かないような状態だと、そちら側へ転がっていく頻度は意外に高いです。


 そのような意味では、特に基礎練習の段階でまずオーソドックスな運指を学ぶことは決して悪いことではない…ということは前提に据えておきましょうか。


 しかし、それが果たして半ば盲目的に墨守するものであるかどうかについては、立ち止まって考えてみることも重要であると思います。



 

 現在、多くの人々がピアノを弾いていることでしょう。ピアノ教本もヴァリエーションがだいぶ豊かになりました。内容は色々あれど、指導者の指導意図に沿った教本が選ばれ、その指南通りに進められることでしょう。


 ところで振り返ってみると、ピアノを弾く人間の数は教本の種類とは比にならないくらいに多いです。その誰もが本当に同じ弾き方でピアノを弾いているでしょうか。指の長さも手の形も、腕の長さも肩幅も、背の高さも体の重心も、人それぞれ異なるというのに。だからこそ椅子の高さだって人によって異なるわけです。


 運指もまた、それを考えた人がいるわけです。もちろん音楽研究も前提にあってのことではありますが、結局は理想の音楽を最大限に実現できる運指が書かれることになります。しかしそれは誰にとってかと言えば、運指を考えた当人にとってです。運指を考えた人と自分自身は、本当に同じような方法でピアノを弾いているでしょうか。


 例えば、9割のピアノ奏者にとっては何の不都合もなく音楽を表現できる運指が、残り1割の奏者にとってはそうではないということは充分にあり得ます。そして自分がその残り1割の奏者側であるかもしれないということは、心に留めておいてよいかもしれません。


 

 極端なことを言えば、理想的な音楽が実現できるならば、どのような運指であろうが問題にはならないでしょう。逆立ちした方が上手く弾けるのであれば逆立ちすればよいのです。逆に、表面通りの運指を守って音楽が良くないものになるのであれば、墨守しただけの見返りは無いものと考えられるでしょう。


 つまるところ、どのような音楽を演奏したいかということをまず先に考えることになります。レガートで弾きたいのかスタッカートで弾きたいのかという単純な観点を持っただけでも、それを実現するための運指は変わってくると思います。


 また、運指が作曲家によってきちんと指示されていたりする場合でも、その理想とする音楽が実現できるならば運指は柔軟に変更して然るべきであると考えています。


 例をいくつか挙げてみましょう。


 

 バルトークの《ピアノソナタ》の第3楽章には、メロディを全て親指で弾くように指示されている箇所があります。これを実践するだけでも、太くマルカートな音色と歯切れの良い表情が出てきます。



 しかし、これを理想的な形で実演するのにはかなりのテクニックが必要であり、また問題点もあります。全部親指で弾くために右手は大変な移動調整を求められますし、その一方で左手は10度の音程に及ぶ和音をこの忙しいパッセージの合間に挿入していかねばなりません。


 ここで重要なことは、右手のメロディの構成音を全て親指で弾いているような音で演奏できることであって、全て親指で弾くこと自体ではないということです。目指す音色や演奏効果が得られるならば、運指や手の左右の融通を利かせることは悪いことではないでしょう。


 ちなみに、僕は右手のメロディを全て親指で弾くことはできますが、左手の10度を届かせることはできません。分散させて弾いてもよいのですが、全部それをやってしまうと締まりが悪くなりそうですから、1/4拍子の小節だけはメロディを小指で弾き、和音の一番上の音を右手で取っています。


 

 ヴェーベルンの《変奏曲》Op.27の第2楽章には、大きな音程を跳躍した後に戻るという音型があります。12小節から13小節にかけてのものがそれです。



 ヴェーベルンのピアノ作品やピアノパートは、左右どちらの手で弾くか、左右どちらの手が交差の時に上になるかということが、非常によく考えられています。演奏効果を考慮したものですから、どんなにアクロバットなパッセージであっても、基本的にはその音を弾く手の指示には従った方がよいでしょう。


 ただし、それもやはり演奏者にとって無理の無い範囲内での話です。上に挙げた例では左右を交互に弾くことによって f と p を弾き分けられるようになっているのですが、しかし離れた鍵盤を速いテンポで弾かねばならないため、ミスタッチが起こりやすい難所の一つでもあるのです。


 ミスタッチ寸前の迫力が失われてしまうのであまり積極的に勧めたくはないのですが、本当にできない場合や、左右交互に弾いたら余計にコントラストが表現できなくなってしまう場合、低音のH音を左手、高音のG音を右手で弾くことにしてしまうのも選択肢のひとつではあるでしょう。


 実はグールドがそのように弾いています。


 

 次に紹介する例は僕にも弾けないものです。プロコフィエフの《ピアノ協奏曲第3番》の終楽章のクライマックスに登場するピアノの華麗なパッセージがこちらです。



 とりあえず楽譜の見た目通りに受け取った場合、求められる技巧は「小指以外の指で隣り合う白鍵2つを同時に高速で弾く」というものです。親指で2つの隣り合う白鍵を弾くことに関しては珍しいことではありません。しかし、人差し指、中指、薬指でこれをやることは殆ど無いと言ってよいでしょう。一般人の指先はそんなことができるほど太くないのです。裏を返せばプロコフィエフ自身の手ではできたということなのかもしれませんが…


 細い指先での重音が難しいピアニストはやはり少なくもないようで、重音をそれぞれ両手に分けて弾いている例を見ることが多いような気はします。正直、1音1音がはっきりと聴こえる必要はないパッセージですから、そこまでして全部の音を拾おうとしなくてもよいのかもしれません。ただ、やるとしたら僕も重音を両手に分配するでしょう。


 

 他にも例は多く挙げられるでしょう。自分の手の挙動都合は経験的にわかっているので、それを元に僕は自分の運指を勝手に考えていることが殆どです。作曲者や校訂者が考えた運指が何でも自分に合致するわけがありません。この調整感覚は試行錯誤の経験によって掴めてくるものでもあるでしょうから、出てくる音楽を確認しつつ、既に書かれている運指のみならず、様々な運指の可能性を模索してみてほしいと思います。



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