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執筆者の写真Satoshi Enomoto

【音楽理論】音名象徴:暗号はお好き?

更新日:2022年1月24日

 突然ですが、推理小説はお好きですか?


 僕は大好きです。エドガー・アラン・ポーは昔からお気に入りですし、父の影響でアガサ・クリスティも読みますし、ダン・ブラウンのラングドン教授シリーズも揃えてしまいました。


 その中でも特に好きなのが、ポーの『黄金虫』です。暗号を解いて財宝を探すという短編ですが、この “暗号” というものにわくわくしたものです。『黄金虫』の場合は数字と記号の羅列を文字に変換する暗号ですね。


 

 ところで、実は音楽においても暗号を隠す方法がありまして、それなりに長きに渡って行われて来ました。それらの暗号は音楽自体とは関係が無かったり、ちょっとは関係があったり…と様々なものがあり、また暗号の忍ばせ方にも、音を数字や文字に変換するといった色々なヴァリエーションがあります。


 その中でも今回焦点を当てるのは…解読難度が比較的易しいであろう、音を文字に変換するタイプのもの。その名も “音名象徴” と言います。楽譜に書かれた音の名前がそのまま文字に変換されるわけです。


 楽典も兼ねておさらいしますが、音名というものは以下の通り。



 主に使われるのはドイツ式音名です。表には C-D-E-F-G-A-H しか載っていませんが、派生音も登場します。特に Es(Eに♭)と B(Hに♭)でしょうか。前者は「エス」…つまり「S」とも読めるので、使えるアルファベットが増えるわけですね。



 

 というわけでまずは大バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685-1750)の作品から。最後の作品《フーガの技法》のまさに絶筆部分をご覧ください。音名を読んでみると B-A-C-H の名前が浮かび上がります。



「偶然じゃないの~?」とも思われるでしょう。確かにこの事は過大に喧伝された面があることは否定できませんが、バッハという名が音名によって書ける(しかも半音階的な響きがする)という事実は後の作曲家たちのインスピレーションを掻き立て、 B-A-C-H の音型を用いた作品が後世作られていくことになります。


リスト:BACH の名による幻想曲とフーガ


カゼッラ:BACH の名による2つのリチェルカーレ


 

 この音名象徴が大好きだった作曲家がいます。シューマン(Robert Schumann, 1810-1856)です。最初の作品からもういきなり文字を音に変換するということをやっていまして、それが《アベッグの名による変奏曲》Op.1です。架空の令嬢アベッグの名前の綴り A-B-E-G-G をテーマにして変奏曲を作るという、なんとも手の込んだことをします。



 そんなシューマンの音名象徴狂ぶりは止まることを知らず、《謝肉祭》Op.9では、恋人の出身地アッシュを音名に変換して As-C-H や A-S(Es)-C-H という音列を導き出し、さらには Schumann という自分の名前からも S-C-H-A を抜き出せることに気付き、これら3つの音列を動機にして音楽が構成されています。楽譜とにらめっこして探してみましょう。なお、この3つの音列は『スフィンクス』というタイトルで楽譜に掲載されています。



 シューマンが暗号化して楽譜に組み込んだものは名前ばかりではありません。シューマンは1840年にクララと結婚するわけですが、その年には歌曲ばかりを書いています。その中でもアイヒェンドルフの詩による《リーダークライス》Op.39には、「結婚」を意味する E-H-E という音型が組み込まれている曲があります。「エヘヘヘ…」ではありませんよ。



 まだまだあります。《ピアノ協奏曲》Op.54の第1楽章、あの有名なテーマの C-H-A-A という音型、これはクララの名前をイタリア風にした Chiara から来ているそうです。そこまでして組み込みたいのか…



 さて、そんなシューマンはディートリヒとブラームス(Johannes Brahms, 1833-1897)を誘ってヴァイオリニストのヨアヒムのために共作でソナタを書きます。《F.A.E.ソナタ》と呼ばれるこの作品はその名の通り F-A-E という動機に基づいていますが、ではこの F-A-E とは何かというと、ヨアヒムのモットーである「自由だが孤独に( Frei aber eimsam )」の頭文字です。まさかの頭文字…譜面からだけでは判断できない…


 その後、ブラームスは自身の《交響曲第3番》Op.90で F-As-F という動機を用いました。これは先述の F-A-E に対して「自由だが喜ばしく( Frei aber froh )」の頭文字だそうで…なるほど、「 ab 」⇒「 A♭」ということですかね。




 

 その次の世代、バッハやシューマンやブラームスといったドイツ圏の先人たちを見て尊敬していた作曲家がいました。シェーンベルク(Arnold Schönberg, 1874-1951)の登場です。12音技法で書かれた《組曲》Op.25の音列に小ネタが忍ばせてあります。試しにプレリュードで音列を見てみると…



 はい、いましたね、逆行している B-A-C-H が。逆行で提示されてこれを聴き取れる人が果たしているのかという話ですが、おそらくシェーンベルクは別に聴き取ってもらうつもりなど初めから無く、楽譜を読んで見つけた人だけにニヤニヤしてほしいということなのでしょう。隠れミッ●ーならぬ、隠れバッハということです。


 12音技法は音列を基にして作曲をする書法です。したがって、音列を設定する時点で音名象徴を組み込んでおくことができます。ものによってはわざと逆行形で組み込んだり、あるいは分割して入れたりすることによって、本当に楽譜を読むまで気付けないような暗号めいたものまで組み込むことができます。


アイスラー:BACHの名によるプレリュードとフーガ



 実は、このことを利用した音名象徴の核弾頭がこの後には控えています…


 それこそが、シェーンベルクの弟子であるベルク(Alban Berg, 1885-1935)です。この妖しい雰囲気を纏う長身イケメン作曲家、表では愛妻家と見せかけて不倫をしていました。お相手の名前はハンナ・フックス(Hanna Fuchs-Robettin)、既婚女性です。まあそれだけを考えてもイケメンクズであるわけですが、勘の良い方々はこんな話を始めた時点でもう僕がどんなネタを出すか予想できるでしょう。



 ベルクは不倫相手の名前を音名象徴として曲に組み込んだのです。


 《抒情組曲》という作品があります。


 第1楽章の基になっている音列の最初の音はF、最後の音はH…そう、ハンナ・フックスの頭文字です。さらに第1楽章の最初の最低音はF、最後の最高音はHです。「いや、それはさすがにこじつけでは…」と思ったあなた、まあお聞きなさい。


 そして第2楽章、途中で C を2回鳴らす動機が登場します。これをイタリア語の音名で Do と読むと「Do Do」となりますが、ところでハンナの娘ドロテアは「ドードー」という愛称で呼ばれていました。これが “ドードーの動機” です。不倫相手の娘まで組み込みました。



 さらに最後の第6楽章には、ヴァーグナーの《トリスタンとイゾルデ》の序曲が引用されます。まずは原曲がこちら。



 この旋律の最初の2つの音は A-F 、最後の2つの音は Ais-H ですが、《抒情組曲》の中の記譜では Ais は異名同音の B となっています。



 A-F… B-H … そう、


 Alban Berg と Hanna Fuchs の頭文字が交わっているのです!


 さあここまででドン引きした方々も少なくはないでしょう。何故このようなあまりにもプライヴェートな暗号が判明しているかというと、ベルク自身が手紙を送って解説しているからです。まさか今こうやって不倫の手紙が研究されているとはベルクも思わなかったでしょう…それが処分されなかったお陰で研究が進むとは何とも皮肉なことです。



 

 ここまで見てきたように、小ネタやプライヴェートな暗号を楽譜に施したがるような作曲家も割といるということを面白がっていただければいいかなと思います。なお、ドビュッシーやラヴェルも文字を音名に変換して作曲したり、ショスタコーヴィチが自身の名前から導き出したD-S-C-Hの動機を用いていたりもしますが、それらの話はより詳しい人たちに譲ることにします。ショスタコーヴィチはあまり詳しくないですし。


 あと余談ですが、僕の名前 Satoshi Enomoto も頭文字を音名に変換することができます。ちょっと使いどころに困る音型になりますけれども…(笑)


 というわけで、最後にもう一つだけ、ベルクが最後に完成させた作品《ヴァイオリン協奏曲》を紹介して終わりにします。



 この期に及んでなお不倫相手の名前を呼んでしまうベルク御大でした。

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