伴奏の依頼でもない限り、僕が演奏するプログラムは殆ど僕自身で決めています。実のところリクエストなんかもほぼ受けていないですし、これからも滅多に受けることは無いでしょう。
あくまでも、自分が弾きたい"曲"、もっと言えば自分が弾きたい"コンサート・プログラム"を演奏するためにやっているという面が大きいので、そこに介入の余地を作りたくないと考えているのです。洋食のコース料理を準備するところで「ラーメン追加で!」というのは受け入れられないですし、それで全体のテーマまで打ち崩されるのを許容したくはないわけです。
開催時間内ならいつまでも好きなようにその場にいて、行ったり来たりしながらでも観賞を楽しめる展覧会とは異なり、演奏会は限られた時間(普通は長くても休憩込みで2時間以内くらい)で、演奏者のリードによって進行する、見方によっては窮屈なものであります。その窮屈な時間を充実させるために、そのプログラム内容の工夫を考えるのです。
どんな曲を選んで持ってきて、どのような順番に並べて、そこにどのような連関を見出だせるようにするか、コンサートが終わった時にどのような総括が残るようにするか…「そんなこと気にせんでも」と言われるかもしれませんが、弾けるものをとにかくあるだけ引っ張ってきただけに見えるような演奏は少なくともやりたくないのです。
さて、そのようなことをしようとした時に思い当たることがあります。
自分で曲をいくつか選んで並べ、とあるコンサートのプログラムを構成したとしましょう。演奏する曲目が決まりますね。
その時、選ばれなかった曲は弾かれないのです。
…何を当たり前のことを、とお思いになるでしょう。選曲において選ばれた曲は演奏され、選ばれなかった曲は演奏されない…それはその通りです。
では、何故その曲が選ばれ、他の曲は選ばれなかったのでしょうか。何を見て、何を基準にして、その判断を下したのでしょうか。
恐らく、その判断の時には意識的なり無意識的なり、自分自身による音楽作品への批評がはたらいていると思います。コンサートでこれを演奏したらどのような意味があるか、どのような効果があるか、どのような反応があるか…といったことを考えるのです。
そのためには自分なりにでも、その曲を演奏する意味や効果を分析して掴んでいなければならないでしょう。流石に何の意味も無いという作品はそうそう無いでしょうけれど、「それはちょっとなぁ…」とか「そうではないなぁ…」と思う部分に気付くこともあるかもしれません。
もちろん、作品自体に瑕疵があったり、プログラムとして不適合があったりするからと言って、それが必ずしも演奏しない理由や演奏を拒否する理由までにはならないと個人的には思います。しかしその部分について意識的である必要はある気がしています。
ちょっと可笑しい話がありまして、僕が大学在学当時、ピアノ科の試験では自身の演奏曲目を口頭で述べてから弾くというルールがありました。先生方も「そんなことしなくていいのに…」などと漏らしていたのですが、どうやら自分がどのような曲目を弾くのかすらよくわからないまま弾く学生がいるからという理由でそのようなルールが作られたそうです。
そんな冗談みたいなことが本当に現実にあるか?と当時は思ったものですが、自らの弾く曲が何かわからないなどという学生はいなかったとしても、その曲目が一体どのようなものなのかを意識させ、その15分~30分程度の一舞台についての自覚を宣誓させるという意味では、あながち下らないルールではなかったのではないかとも思います。先生から指示された通りに従っただけの選曲であるか、それとも自身の意思で一つの意志・目的を貫こうとする選曲であるかによって、その確信の度合いは異なってくるでしょう。
クソデカ主語で断言することは避けますが、口には出さないまでも、程度の差もあれど、意識的か無意識的かも両方あるにせよ、何かの曲を選んで演奏しようという時に、その人はその曲についての批評を自分の中で行っていると考えています。批評を本当に全く無しにそれを演奏するとすれば、そこにあるのは前述のような「自分の意思ではなくそう指示されたからわからないまま演奏した」ではないでしょうか。
このことは僕自身にも戒めが必要なことであります。批評を商売にするというわけではなく、せめて自分の手元では意識的に批評していこうと思います。
Comments