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執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】“繋ぐ”ということ


 大学院を終了して4年目に突入しているわけですが、ここ数年で僕自身の音楽に対する関心のテーマがだんだんと明るみになってきました。


 それは “繋ぐ” という言葉によって表すことができます。


 “音楽”とは何なのか ── 自分が演奏する、過去の人間たちによって書かれた“音楽”とは何なのか、もしくは自分が今この時に書く“音楽”とは何なのか ── を考えた時に、今の僕が出した答えは「音楽とは、人間が文脈や論理に基づき、意思と工夫をもって音を繋いだもの」というものでした。


 人間は夜空を見上げ、地球からそれぞれ異なる距離で孤独に存在するはずの星たちを繋いで “星座” と呼び、そこに勝手に物語を想像(創造)しましたが、“音楽” もまた似たようなものでしょう。一つの “音” というもの自体は本来単独で存在するものです。高い音/低い音、長い音/短い音、大きい音/小さい音、様々な音色をもつ様々な音、さらには沈黙という“音”… そんな音と音とを繋ぎ、それを人間は “音楽” と呼んで想いを託してきたのでしょう。


 音楽史は、人間が音の繋ぎ方を考えてきた歴史であると考えてもよいかもしれません。そこに様々な秩序が存在すると考えては解明を試み、その結果として新たな音楽を人間たちが生み出してきたと捉えれば、僕がピアノ奏法よりもむしろ階名や和声理論、楽曲分析などに惹かれるのも自分で納得がいきます。先人たちが何を考え、どのようにして音を繋ごうとしたかを知りたいと願うのです。


 “音” を繋いで “音楽” を作り、“音楽” を繋いで “コンサート” を作る ── これが狭義での音楽家の仕事であると言えるでしょう。ここから “音楽家たちの活動” が繋がって “音楽文化” を成し、“音楽文化” が繋がって “音楽史” となる ── 僕ら現代の音楽家たちの役目は、過去の音楽と未来の音楽とを繋ぐことではないかと考えています。


 

 この “繋ぐ” ということについて、どうしても音楽に留まる話にしておきたくはない自分がいます。

 音楽以外の芸術文化も…という意味ももちろんですが、現代における社会の中での分断を非常に嘆かわしく思っているのです。人間たちが対立を煽ったり煽られたりしながら、どのように人間や世界を “繋ぐ” ことができるかという思考を放棄したり、もはやむしろ否定したりしているようにも見えます。


 敢えて変な言い方をしてみましょうか。


「分断を煽る社会は音楽的でない」


 …と感じるのです。どんなに離れて区切られたように聴こえる2つの音でさえも、その遠い隔たりをもって繋がっているのです。


 音を “繋ぐ” ことができるか、音楽を “繋ぐ” ことができるか、文化を “繋ぐ” ことができるか、昨日と明日を “繋ぐ” ことができるか、人間と人間とがその手を “繋ぐ” ことができるか…


 そこに僕は興味があります。僕がコンサートを開いたり、レッスンをしたり、政治的な発言をしたりするのも、この “繋ぐ” という意志を実現するためのものであるつもりです。僕がやったことによって、どこかで何かが “繋がる” ということが起こったならば、それは奇跡にも等しい価値があることでしょう。


 

 というわけで本日、また一つ歳を重ねまして、28歳になりました。普段「30代後半かと思ってた!」などと言われますが、今年に入ってさらに迷走に拍車がかかった若造であります。


 自分の人生がこの後どこへ繋がるのか、自分自身でもわかりません。ただ、コンサートなりレッスンなりの音楽活動を通して、何かを “繋ぐ” ことを試みていこうとは思います。


 なお、食い “繋ぐ” ことはあまりできていません。お仕事ください(オチ)

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