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執筆者の写真Satoshi Enomoto

【感想】大井駿『協奏曲との邂逅』:立体的・多層的な音楽作りのために


 2022年12月27日の夜は新宿ガルバホールにて、指揮者・ピアニストである大井駿さんのコンサート『協奏曲との邂逅 ~管弦楽のない協奏曲~』を聴いてきました。音楽史研究や楽曲分析による演奏解釈を武器とする大井さんのトーク付きコンサートとなったら行かないわけにはいきません。僕も普段の彼の書く文章からは多くのことを学ばせてもらっております。



 今回のコンサートのテーマはずばり「協奏曲」でした。現在で協奏曲と言えば基本的に独奏楽器とオーケストラで演奏される楽曲のことを指していますが、その成立までの歴史は意外と深いものです。僕もコダーイラボの講義のためにおさらいしましたが、その起源から協奏曲創作において大切にされた観点というものは、確かに楽器の練習を延々としているだけでは知り得ないものでありました。



 コンサート『協奏曲との邂逅』でピックアップされたのは、協奏曲は協奏曲でも「1台の鍵盤楽器のための協奏曲」でした。なるほど、クラシックを少しでも聴く人ならば、J.S.バッハの《イタリア協奏曲》が思い浮かぶでしょうか。複数の楽器の合奏でもない、ソロとオケが別々に存在しているわけでもない…それなのに何故この曲は「協奏曲」なのか?ということが、まず初めに聴き手の前に示される疑問であります。


 まずは協奏曲の起源からのお話からコンサートは始まりました。ポストカードサイズのプログラムにはそのカギとなる写真がプリントされているではありませんか(ネタバレ防止のため何であるかは書きません)。細かすぎるところまでは突っ込まずに、要点を抜き出してまとめるトークの手腕もお見事でした。


 最初に演奏したのはヴィヴァルディ=J.S.バッハ《協奏曲 ヘ長調》BWV978です。原曲はヴィヴァルディの《ヴァイオリン協奏曲 ト長調》RV310、『調和の霊感』に収められた1曲ですね。つまりはオリジナルはしっかり合奏であるわけですが、では何故それがバッハの手によって鍵盤楽器1台のためにアレンジされているかという経緯まで軽妙なトークでお話ししてくれました。


 このヴィヴァルディを最初に置くからこそ、バッハの《イタリア協奏曲》がどのような位置にあるのかがより際立って聴こえるのでしょう。プログラムの妙というものです。確かに、バッハが編曲を通してヴィヴァルディやマルチェッロなどのイタリアの作曲家の書法を学び、それを活かして書いたものであるという説明が一般には為されます。もちろん実際にそのような面はあるのですが、大井さん個人の考え方(感じ方)も面白いもので、言われてみると確かにイタリア趣味に傾きながらも結局バッハの音楽になっている気もすると思いながら聴いたのでした。


 このへんで小休憩でも入るかなと思っていたら、なんと休憩無しでした。今回のプログラムではそちらの方が変にダレなくてよいのかもしれません。


 さて、チラシには載っていなかった曲目であるベートーヴェンの《幻想曲》Op.77は、プログラムを一見した時には『協奏曲』というテーマとは離れているように思えました。しかし大井さんの解説を聞き「協奏曲の前に弾いていた即興演奏枠」として聴くと途端にフィット感が湧いたのでした。


 ところで、ベートーヴェンの《幻想曲》を弾くとは知らずに来たので思わぬ収穫が得られたというのが個人所感だったりします。この曲の存在は長らく知っていて、自分でも少し練習したことがあったのですが、様々な楽想が調もテンポも含めて二転三転したのち変奏曲に突入するという形式が正直不可解なままでありました。今回の解説の中でC.P.E.バッハの名前が出たことで、一気に何かが見えた気がしたのでした。そういえば先日のベートーヴェン歌曲コンサートのための調べ物をした時にも、C.P.E.バッハの名前が登場し、これは後できちんと調べねばと思ったところだったのです。「協奏曲」とは別に、新たな興味が湧きました。


 そんなベートーヴェンの後にやって来たのがシューマン《管弦楽の無い協奏曲》Op.14です。テーマである「協奏曲」の意味するところがここで明らかになります。ただでさえ複雑な構造を持つシューマンの音楽は、ピアノ1台のための作品であろうともそれ自体が協奏的音楽であるのです。


 いや、本当はシューマンに限った話ではないのでしょう。この日のヴィヴァルディから全てその通りでしたし、このコンサートで弾いていない作品もそうなのでしょう。一人で演奏するピアノの音楽はどうしても「一人が行う演奏」に寄ってしまい、立体感や多層感を失いがちです。たとえ独奏作品であっても、それをあらゆるパートによる協奏的音楽と捉えることによって、バランスの調整や合奏の間合いが実現される…というポイントを受け止めました。もちろんピアニストがそれを普段意識していないというわけではないのですが、指揮者でもある大井さんはよりその観点に意識が向かうのかもしれません。


 僕自身がピアノ弾きであるため、演奏者視点で色々感じたことを書きましたが、きっと専ら聴き手という方々も今後の聴き方が変わるコンサートだったのではないでしょうか。この日の少し前に「トークが入るクラシックのコンサートなんて要らん!」という意見が目に入り、どうなのだろう…と心の片隅で考え込んだりもしていたのですが、その意見を吹き飛ばす明瞭な解説とそれに違わない見事な演奏でした。



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