度々、定期的に議論に上がることではあります。「クラシックの演奏家は現代音楽をやろうとしない」という現状、そして「現代音楽をやるのは演奏家として逃げである」という価値観。またその話かよ~と思う音楽家は多いでしょうが、これについては職業音楽家のみならず、音楽に関わるすべての人が知っておいた方がよい事柄でもあるでしょうから、しばしお付き合いください。
まず、おそらく「クラシックの演奏家になりたい!」とか「クラシックが弾けるようになりたい!」と思い至る切っ掛けになる “クラシック” は、十中八九は古典派~ロマン派(だいたい19世紀いっぱい)の音楽でしょう。
ショパンとかシューマンとかリストとか、CMなどの日常生活で聴こえてくる機会も多く、またメディアに引っ張りだこの大人気スター演奏家たちが凄腕を見せるために弾くような曲の作曲家が人気になるのは当然のことです。それを見て「自分もあんな風にピアノが弾きたい!」と思った人が念頭に置くのはやはりそのような作曲家たちでしょう。メディアの力が影響している面はあると思います。
しかし、ここで演奏家たちは商業的なことを考えます。他はさておいても、ロマン派が弾ければある程度仕事になってしまうのです。
僕が師匠に言われたショッキングな言葉があるのですが、それは「切符(※チケットのこと)が売れなきゃ仕事にならない。現代音楽みたいなものを弾けるようにしたってお金にならない。聴衆が聴きたいものを弾かなければダメ」ということです。確かにそれは現状において間違ってはいないのでありまして、お客の需要がある商品を供給すれば売れるしお金が手に入るのです。コンサートのアンケートに「自分も知っている曲を弾いて欲しかった」と書かれて「(いや、あなたがどのくらい曲を知ってるか知らんがな)」と思ったり、非常勤講師時代にも生徒たちが「知らない曲を聴いても楽しくない」と言っていたりしたので、心当たりはかなりあります。
そんなわけで恐らく「クラシックの演奏家が現代音楽をやろうとしない」の一つの理由は「需要が無いから」と言えるかもしれません。ゆえに、音大などでさえも一部の先生方は学生たちにもそのような類いの音楽を多く演奏させ、レパートリーとして持っておかせようとするのでしょう。そして演奏家は聴衆のリクエストの中で勝ち上がるべきであり、そうでない音楽をやろうとすることが “逃げ” であるという価値観が登場することも説明ができると思います。
また「現代音楽なんていう複雑な音楽を演奏したら音をミスしてもバレないから “逃げ” である」みたいな話も聞きます。なるほど確かにそれを実感する体験はいくつかありました。ミスタッチだらけの演奏だったのに、コンクールの審査員がその現代曲を知らなかったのか、良い評価を取ってしまったことなんてのも実はありましたね。しかし、これも知っている人が聴けばすぐに見抜かれるものでして、それはむしろ現代音楽についてあまり知らないという事実を演奏家側が恥じねばならないのではないか?などとも思うところです。
ところで唐突ですが、皆さんはカフェやレストランで「何それ!?」と思うメニューに遭遇した経験はあるでしょうか?
僕が最近で印象に残っているのはチーズティーですね。お茶にチーズフォームなんか入れて味は大丈夫なのか!?と思いつつも好奇心で頼んでみると、あまりにも好みの味だったので非常に感動しました。あれは飲むチーズケーキですよね。まあもしも大丈夫じゃない味だったらそもそも商品として出ていないのですけれども。
チーズティーに対して最初「それ大丈夫?」と思った人は僕だけではない…と思うのですが…このチーズティーは最初に「これメニューとしてイケる!」と思った人がいて、それが商品化されたからこそ、今はそれを注文する人が増えたわけです。なにも最初から「多くのお客さんたちがお茶にチーズフォームを投入することを求めている!」と考えたから作ったのではありますまい。
現代音楽を作っていこうという試みは、ある意味チーズティーを考案したことと似たようなものであると思うのです。最初は「えー!?」と思うかもしれないけれど、いざ味わってみると新しい美味しさに出会えるかもしれません。そしてその新しい「美味しい」が一般に浸透していくことによって「美味しい」の領域が拡がっていくのです。タピオカミルクティーが今や一般的なメジャーなものになったのと同じようにです。現代音楽を作ろうとすることは、新しい音楽の面白さを問いかけ、人間の音楽における「面白い」の領域を拡げる試みであると言えるかもしれません。
実は、過去の音楽もそのようにして登場し、今となっては一般化したものなのです。100年前にはドビュッシーやラヴェルが当時の “現代音楽” でした。150年前にはリストやワーグナーが当時の “現代音楽” でした。200年前にはベートーヴェンやシューベルトが当時の “現代音楽” でした。現在僕らが “クラシック(古典)” と呼んでいる音楽は、それぞれの時代における “現代音楽” だったのであり、作曲家たちもそのつもりで音楽を作っていたはずです。時代を経て今や一般化してしまったから古典という位置にいるだけであって、そこに込められた精神は「新しい音楽を作ろう!」という “現代音楽” 精神とでも言うべきものなのでしょう。
芸術の需要というものは、最初からあるわけではないのです。むしろ、芸術家たちが芸術の面白さの領域を拡大することによって、その受け手が「これは面白い!」と感じてそこから需要が発生していくのです。ちょっとこういう面白い音楽があるんだけどどうよ?と聴衆を刺激していくことこそが様々な音楽への興味を喚起することに繋がり、需要になるのでしょう。
“現代音楽” の勉強が、クラシックの演奏にも活きてくることがあるのです。現代音楽における「どんな新しい面白さを実現しようとするか」という思考回路は、そのまま “過去の現代音楽” たるクラシックにも適用できるのです。ベートーヴェンが「どんな新しい面白さを実現しようとするか」を考えることによって、その音楽の中に “新しい面白さ” を発見することができたりもするのです。これを訓練するためには、既にそういうものだという手垢のような先入観が付いた作品よりも、誰も知らなかった作品の方が適しているでしょう。
音楽史上の作曲家たちは、音楽の領域を拡げることに挑戦してきました。それを「先人たちは凄いね~」ということを延々と言うだけでは単なる情報伝達にしかなり得ません。偉大な作曲家たちの後に続くということは、彼らの音楽を伝承することではなく、彼らがやったように音楽の領域を拡げようとすることでしょう。今この時代において現代の音楽を考え、それに取り組むということこそが、むしろ先人たちの魂に近付く方法ではないかと思っています。
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