複数の調を重ねて斬新な音響を生み出す「複調」という作曲技法があります。世間一般に知られる曲の殆どは、その時々に機能している調は一つであると思われます。途中で転調することによって一つの曲中に複数の調が経時的に含まれることは珍しくありませんが、「複調」と「転調」は別の概念であります。複調は同時的、転調は経時的な異なる調の存在と言うこともできるでしょうか。
複調は単一の調におけるものよりも彩度の高い音楽を作ることができます。まず用いる音が全音階の範囲を超えており、音の組み合わせの幅が広がることを考えれば、その多次元的で万華鏡のような効果が生まれるであろうことは想像できるかと思います。
一方で、複数の調を並存させてしまうと音楽自体が崩壊の危険性に直面するのではないかという危惧も浮かぶかもしれません。しかし、同時並存する調それぞれの中では調の結束は機能しています。これによって、程度の差はものによってありつつも、本当に混沌とした響きになることは稀でしょう。
それでも「異なる調が並存する」という音楽にいざ取り組む段階にもなると、どうやって向き合えばよいのか迷う方は少なくないかもしれません。そこで、複調がなぜ複調として聴こえるのか、僕たちがどのように複調を捉えているのかを考え、ヒントを導き出したいと思います。
複調が複調として認識できるということは、並存するそれぞれの調の成立も捉えられるということでしょう。つまりは異なる高さで奏でられるドレミが聴こえるということです。どのような高さであろうと階名は長音階ならドレミファソラティド、短音階ならラティドレミファソラと捉えられるでしょう。具体的に聴こえてくる異なる高さのドレミファソラティドについて「異なる高さの音階が成立している」と聴くことができれば、自身の認識の中で整理をつけることができると思われます。
いくつかの作品を紹介しておきましょう。
現在のウクライナ、ドネツク州出身の作曲家プロコフィエフのピアノ小品の中でも超絶技巧で名の高い《トッカータ》Op.11は、主調としてはニ短調が設定されつつも、内部調として様々な調が跋扈する、演奏技術のみならず作曲技法の面でもアクロバットな作品です。
楽曲の中腹あたりに登場するパッセージがこちらです。程度は緩やかではありますが、ト短調・変ホ短調・ロ短調それぞれの主和音ラドミが切り替わっていくのがわかります。ここに用いられる3つの調(同時には2つのみが重ねられる)は、それぞれ主音が長3度音程ずつ隔たった調となっています。変ホ音とロ音は見かけ上は減4度ですが実質的には長3度ですね。
長3度隔たった3つの調を連結するという発想については後のコルトレーン・チェンジズなんかも思い浮かべないでもないですが、もしかすると程良い具合の切り替えに使える距離の調という面があるのかもしれません。
プロコフィエフの《トッカータ》は演奏難度が高すぎるということもあり、自分の手元ではあまり手軽に複調を体験できないかもしれません。
そんなわけで、イタリアの作曲家カゼッラの『子供のための11の小品』から《カリヨン》を紹介しておきましょう。この小品集には複調ももちろん、旋法性の音楽や汎全音階主義的な作風の楽曲も含まれていまして、しかも演奏もそこまで難しくないので、手近にそれらの手法を体験することができます。
左手の嬰ヘ均のオスティナートに乗って、右手がハ均でメロディを奏でます。全体の響きは異国感どころか異世界感が飽和するのに対して、それぞれに音階はきちんと成立しているために各々のメロディ自体は親しみやすいものが聴こえてくるという絶妙なバランスがこれによって実現されます。
右手はハ均、左手は嬰ヘ均ということで、それぞれのドの位置にある音が増4度離れていることに気付かれると思います。両均の共通音はロ音とヘ音(嬰ホ音)だけですから混じり合うこと無くそれぞれが調として聴こえる上に、12の音高を全て用いることによる彩度の高さも獲得していると言えるでしょう。
自分の手元で複調を作ってみたい!と思った場合には、まずは増4度離れた均同士を重ねるてみることをお薦めします。だいたい上手くいきます。
僕がだいぶ前に弾いた曲も紹介しておきましょう。ジャズ×クラシックのパイオニアの一人であるアメリカの作曲家ガーシュウィンは、フランスのラヴェルの元を訪ねた時期に《2つの調による即興曲》という小品を残しています。右手のメロディがたまに左手のベースの調から半音下の調で演奏されています。
もしかするとこの曲の複調の方がカゼッラのそれよりもさらに親しみやすくわかりやすいかもしれません。それこそこの作品の練習に関しては、階名唱を併用の上で弾いてみると「どこが複調なのか、どこで戻るのか」が掴めるので、より音楽の方向性が明瞭になるでしょう。
なお、この曲をガーシュウィンが書いていた時期に、一方のラヴェルが書いていたのは遺作ではない方の《ヴァイオリンソナタ ト長調》。その第2楽章「ブルース」には、この曲と同じように「メロディがベースの半音下の調で演奏される」という箇所があります。
複調が大々的に試みられるようになったのは20世紀に入ってからの話ですが、決して前例がそれより前の時代に存在しなかったわけではありません。ただ、確かに「時代」としてのメインストリームではなく、イロモノの作品単体としての存在であったのも事実でしょう。
かのモーツァルトが書いた冗談音楽《音楽の戯れ》KV522では、その結尾に複調のような書法が用いられています。とは言っても調がきちんと聴こえるわけではなく、この場合は単にオチとしてのヤケクソな不協和音を導出するためのものであり、後の時代に言う「複調」を狙ったわけではなかったと思います。
それよりは、ルネサンス時代のリュート奏者ハンス・ノイジードラーが書いた《ユダヤ人の踊り》の方が複調には近いかもしれません。異国感を出すためのものでしょうか。持続低音の上に、長音階でも短音階でもないメロディが奏でられます。ついでに全音音階まで出てきてしまっていますね。なんともオーパーツみのある曲です。
伝統的な音階を保ちながら新しい音響を追い求めた「複調」の音楽。それを捉えるためには、全ての音を混沌的な一つの総体ではなく、様々な高さの音階の多層として認識することが一つのヒントになってくれるかもしれません。
それはつまるところ、どのような音の高さにおいても長調とは何か、短調とは何か…長調・短調を長調・短調たらしめている性質とは何か、ということを掴むことが求められてくるのでしょう。このような考えから、階名がその応用力を発揮するのはむしろ調性の範囲が拡大した音楽の方ではないかとさえも、僕は考えております。
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