僕のレトロ好きは度々公言している通りですが、YouTubeで古い映像や映画を観ることも趣味の一つに入ります。学生時代には『カリガリ博士』や『ドクトル・マブゼ』などの表現主義映画をよく観たものです。
最近、古い映像を補正・着色して公開しているチャンネルを見つけまして即座に登録を決めたのですけれども、つい今日、映画『Berlin – Die Sinfonie der Großstadt』(邦題『伯林 - 大都会交響楽』) が補正着色の上でアップされたのでした。
この映画は、1927年のベルリンの1日の日常生活を記録したドキュメンタリー映画です。街の風景、交通網、発達した製造業、労働環境、スポーツ、食事、キャバレー(カバレット)の様子などが、やや大袈裟な演出(?)を伴って映っています。
普通に映画だけに興味をもって観ていれば、レトロなベルリンの風景を割と綺麗な映像で楽しめる…というだけのことかもしれませんが、歴史や音楽史に意識がいく性分からすると、映像に映っていないことまで考え始めてしまいます。
当時のベルリンは、第一次大戦後1919年に発足したヴァイマル共和国の首都でありました。ヴァイマル憲法を歴史や公民で習った記憶があると思います。国民主権を規定し、社会権を保障し、選挙権は20歳以上の男女に平等に与えられました。そして、表現の自由が保障されたことは芸術にも影響を与え、前衛的・革新的な芸術が発展することになりました。
ところで、そのようなヴァイマル共和政が国民に支持されていたかというと、どうやらそうでもなかったようです。一次大戦の賠償はありましたし、議会制による政党の乱立が政情不安への遅い対応へと繋がってしまったのでしょう。国民はむしろナショナリズムへの共感を抱いていたようです。前衛芸術の自由を保障し、きちんとチャンスを与えていたことも、一般大衆や保守派の反感を買ったと考えられます。
1929年の世界恐慌は見事にヴァイマル共和国に大打撃を与え、ナショナリズムを唱える保守派によるユダヤ人や左翼への攻撃が始まります。保守勢力自体は穏健派から過激派までグループは分かれていたのですが、ヴァイマル共和政への敵意は一致しており、それらを一通り拾い上げたナチズムによって1933年にヴァイマル共和国は崩壊することになります。
さて、冒頭の映画は1927年の作品です。ヴァイマル共和政はその短い期間の半分を過ぎ、この後崩壊への道を辿ります。この年はある意味、最も栄華を誇った時期かもしれません。
そんな時期のベルリンでは一体どんな音楽家たちが活動していたかが気になってしまうのが音楽家の性というもの。というわけで、色々書いていきたいと思います。
まず、1927年を迎える前にベルリンで亡くなった大作曲家・大ピアニストを一人。そう、ブゾーニ(Ferruccio Busoni, 1866-1924)です。現在では主にバッハの《シャコンヌ》のピアノ編曲でばかり知られていますが、新時代の音楽を考えては提唱し、後続の作曲家を励ましました。
ベルリンで指導者の立場にあったもう一人の作曲家としてシュレーカー(Franz Schreker, 1878-1934)の名前を挙げておきたいと思います。1920年からベルリン高等音楽学校(現 ベルリン芸術大学)の校長として、多くの音楽家を育てました。ベルリン移住前にも指揮者としてツェムリンスキーやシェーンベルクの作品を初演しています。当人はオペラの作曲家として活動しましたが、ナチスの台頭によって上演の妨害や役職の解雇に遭い、悲劇的な最期を遂げます。
ブゾーニの門下生の一人が、大衆から人気を得ました。ヴァイル(Kurt Weill, 1900-1950)です。劇作家ブレヒトと協力して創作活動を行い、《三文オペラ》がヒットしました。クラシックとしてのみならず、劇中歌の《メッキー・メッサーのモリタート》が《マック・ザ・ナイフ》としてジャズのスタンダード・ナンバーになったり、作品が何度も映画化されたりもしています。ナチス台頭と共にアメリカへ亡命しました。
もう一人、ブレヒトと共働した作曲家がアイスラー(Hanns Eisler, 1898-1962)です。ヴィーンでシェーンベルクに学んだ後、1925年からベルリンで活動を始めました。共産主義への傾倒という話を抜きにしては語れないくらいに政治に関わった人でして、シェーンベルクから学んだ12音技法を捨てたこともそこに起因しています。第一次大戦に従軍した経験から、音楽家としても社会に訴えてゆかねばならないと考えたのでしょう。専門教育を受けた音楽家たちのみが理解できる前衛音楽よりも、労働者たちにも歌える親しみやすい音楽を目指したわけです。1927年にはアジプロ演劇集団『赤いメガホン』の音楽監督に就任しました。ナチスの台頭を受けて最終的にアメリカへ移住しますが、第二次大戦後に赤狩りに遭って東ドイツに舞い戻り、ベルリンで没するという、なんともベルリンに縁のある作曲家です。ちなみに東ドイツの国歌も書きました。
アイスラーの師匠であるシェーンベルク(Arnold Schönberg, 1874-1951)はというと、実は1926年始にヴィーンからベルリンに移ってきたのです。実はブゾーニの死によって、ベルリン芸術アカデミー(翌年からプロイセン芸術アカデミー)の作曲クラスの指導者ポストに空席があったのでした。シェーンベルクはブゾーニの後任だったのです。シェーンベルクがベルリンに滞在するのはこれが初めてではなく、1901年にブンテ劇場の楽長として、1911年にシュテルン音楽院の講師としてそれぞれ滞在し、いずれも生活に困窮してヴィーンに戻っています。3度目である今回は契約条件が断然良く、アシスタントのルーファー(Josef Rufer, 1893-1985)を引き連れ、充実した教育活動にあたることができたようです。なお、シェーンベルクは政治的にはナショナリズムの立場であり、アイスラーが音楽上でも政治上でも反発して逆破門したのがまさにこの時の話です。ナチス台頭と共にベルリン生活は終わりました。
シェーンベルクのプロイセン芸術アカデミー時代の弟子にも言及しておきましょう。最も名前が有名なのはギリシャからの留学生であるスカルコッタス(Nikos Skalkottas, 1904-1949)でしょうか。当初はヴァイオリン専攻として留学してきたのですが、ベルリンに来てから作曲へ転向、ヴァイルに学んだ後シェーンベルクの元へやってきました。独自の12音技法を打ち立てますが、母国であるギリシャにこれが受け入れてもらえず、シェーンベルク亡命後にはギリシャへ強制的に連れ戻され、不遇な扱いを受けながら膨大な作品を遺しました。
もう一人、スペインからの留学生であったジェラール(Roberto Gerhard, 1896-1970)にも触れておきたいと思います。ピアノをグラナドスに、作曲をペドレルに習ったというだけでもバリバリのスペイン音楽のホープですが、シェーンベルクに師事して12音技法も用いるようになります。1928年にはスペインに帰国してしばらくはスペイン民族主義的な音楽を書いていましたが、スペイン内戦を逃れてイギリスへ亡命し、戦後になってから12音技法へと戻りました。「無調音楽」という言葉に疑問を呈した作曲家でもあります。
シェーンベルクのヴィーンでの門下生、ベルク(Alban Berg, 1885-1935)の名前も出しておきましょう。ベルクはベルリンに住んだわけではありませんが、重要な理由があってベルリンを訪れました。今や彼の代表作であるどころか、音楽史上でも重要な位置を占めるオペラ《ヴォツェック》の初演は、1925年にベルリン国立歌劇場で行われたのです。なお、「《ヴォツェック》の稽古は137回に及んだ」という話は尾ひれの付いた噂であり、ベルクや初演指揮者エーリヒ・クライバー(Erich Kleiber, 1890-1956)を攻撃するための「クライバーが稽古を100回以上要求している」というデマが元だとか。クライバーが台帳を示して反論していたようです。
シュレーカーがヴィーンからベルリンへやってくる時に一緒についてきた門下生が、ストラヴィンスキーと並ぶレベルのカメレオン作曲家であるクシェネク(Ernst Krenek, 1900-1991)です。当時流行していたジャズを取り入れた1926年のオペラ《ジョニーは演奏する》は爆発的にヒットしました。1928年の時点でクシェネクはヴィーンへと帰ります。
そんなクシェネクと接点を持っていた作曲家こそがヒンデミット(Paul Hindemith, 1895-1963)でした。ヒンデミットは1927年にベルリンに移り住んだのでほぼ入れ違いのような形です。1923年のクシェネクの《弦楽四重奏曲第3番》は、ヒンデミットがヴィオラ奏者を務めるアマール弦楽四重奏団のために書かれました。クシェネクはその後12音技法に接近してからはヒンデミットの音楽を批判しているのですが、お互いがアメリカ亡命し、ヒンデミットが教鞭を執るイェール大学でクシェネクが講演をした際には、ヒンデミット作品を褒めていたりもします。1934年に《交響曲『画家マティス』》のベルリン・フィルによる初演がナチスの目に留まり、ヒンデミットに対する厳しい措置が取られることになりました。ベルリンで作品発表の場を失ったヒンデミットは休職してトルコやアメリカを訪問し、段階的な亡命に踏み切ることになります。
《交響曲『画家マティス』》初演の指揮をしたのがフルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler, 1886-1954)です。ベルリン生まれのベルリン・フィル常任指揮者であったわけです。その期間、1922年~1945年。シェーンベルクの《管弦楽のための変奏曲》も彼の指揮でベルリンで初演されています。ヒンデミットの一件があってから一度辞任しているのですが、広告的に不都合を感じたナチスの歩み寄りにより復帰します。しかしそれでもナチスには反抗的な態度を取り続け、第二次大戦末期に結局亡命しました。ちなみに指揮者として有名ですが、作曲した作品も結構面白いです。
先述のクライバーとフルトヴェングラーはベルリン国立歌劇場の関係者ですが、ベルリンには市立歌劇場(現 ベルリン・ドイツ・オペラ)もありまして、そこの1927年当時の音楽監督が、ベルリン生まれのヴァルター(Bruno Walter, 1876-1962)でした。期間は1925年から1929年までです。本名をブルーノ・シュレジンガーという彼はユダヤ系であったため、やはりナチスの弾圧対象になってしまいました。当初はヴィーンに移住しましたが、1938年のアンシュルスを機に亡命の道を選びます。
あまりにもナチスに迫害された人たちばかり紹介してきているので、そうではなかった人も紹介しておきましょう。ブゾーニはベルリン芸術アカデミーの作曲クラスの指導者を1921年から務めましたが、そのさらに前年からそのポストに就いていたのがプフィッツナー(Hans Pfitzner, 1869-1949)です。ブゾーニが革新的な音楽を志向したのに対し、プフィッツナーの志向は決定的に保守派という、相対する指導者をアカデミーは擁していたわけです。音楽的にだけでなく政治的にも保守派で、ヴァイマル共和政に反対しており、ナショナリズムを支持していたことから案の定ナチスに接近したようです。党員というわけではなかったものの非常に手厚く扱われ、本人も火消しに奔走して戦後の裁判は無罪でしたが、ナチスと深い関係にあったことが最近示唆されています。この時代にあってなおロマン派の作風を貫いたので、音楽自体にハマる人は少なくないかもしれません。
なお、詳しくないので細かくは触れられないのですが、1920年代のベルリンではオペレッタやレヴューなどの流行があったことも記しておきましょう。第一次大戦の暗い空気を吹き飛ばしてくれる、絶好の娯楽だったのかもしれません。この後のナチス政権下でもこれらは歓迎されたようですし、非政治的な娯楽映画なども弾圧の対象ではなく、一応は頽廃芸術と見なされたジャズさえも大衆娯楽としての地位があったので取り締まりは徹底しなかったようです。大衆が娯楽に酔っていてくれた方が都合が良かったのかもわかりませんが。
こういった音楽家たちが、1927年のベルリンに結集していたのです。それはナチス台頭前夜の栄華であったかもしれません。この後、彼らは亡くなったり、亡命したり、あるいは残ったりしながら、散り散りになっていくのであります。
冒頭に載せた映画の舞台である街を、発達した機械文明とどこか魔術的な空気を備えた街を、彼らは歩き、音楽し、生きていました。そんなことを考えながら観ると、泡沫の夢のような栄華が愛おしくも思えるのであります。
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