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執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】音楽家が「難解」だと思い込んでいる音楽を、聴衆はあっさりと受容するかもしれない:聴衆の受容力を信じるということ


 常日頃から、はたして知名度の高い作品や軽くて親しみやすそうな作品ばかりを優先して演奏することによって、本当に聴衆はそこを取っ掛かりにしてよりマイナーな作品や複雑な作品にまでリーチしてくれるのだろうか?という疑問を持っています。


 もちろんそこからリーチしてくれる人は一定数存在するでしょう。全く無いとは言えません。それでも、「本当はこういう音楽に触れてほしいんだ!」というものを引っ込めて延々と「これ知ってる~!」という楽しみ方を提供し、本命に辿り着くのはいつになるのかとも考えたりするのであります。こっちの寿命が先に尽きてしまうぞ、と。



 

 芸術家・岡本太郎を色々な理由で敬愛しています。作品自体ももちろん好きですし、その思想・芸術観にも多くの刺激を受けました。


 その岡本太郎に対して、僕は羨望の眼差しも向けていることをここに認めます。彼の作品は今や、非常に多くの人々に愛され、楽しまれています。彼自身は「いやったらしいものを作るんだ!」と豪語しているのにも関わらず、です。すっかり大衆があのような作風を見馴れてしまったという事情もあるかもしれませんが、嫌悪感を抱き「なんて嫌な絵だ!」と言い放つ人の方が今や少なくなったでしょう。


 岡本太郎の絵画や彫像作品において、彼は自身の作風をほぼ譲歩していないと思います。そしてそれは商業のためのデザインにおいてさえも同じことです。先日の岡本太郎展でも旧都庁舎のためのデザインを見ましたが、都庁舎に設置するものとしてはやはり目に喧しい代物でしょう。また現在渋谷駅に設置された『明日の神話』は元々メキシコシティに建設されるはずだったオテル・デ・メヒコ(運営会社倒産によって竣工ならず)に飾られるものとして制作されましたが、ホテルに飾っても駅に飾ってもそれが異様な存在感を放つものであることに変わりはなかったでしょう。


 もちろんその売り込みには(本人の"芸術爆発おじさん"というキャラクターも込みで)工夫があったでしょうけれども、創作自体においては結局自分の好き放題をぶちまけていたと思います。


 

 高校時代の音楽科の恩師(既に退職)に言われた言葉があります。それは「子供たちは智史が思っているほど "難解だと思われる音楽" を受け止められないわけじゃないよ」というものです。そして、その言葉は確かに現実であったのです。人々は日常生活の中でも様々な音楽に触れているもので、クラシックの人間がクラシックを基準にして「難解であろう」と思い込んでいる音楽が、その人にとっては日常生活の中に、例えば毎日のようにスマホから流れてくる音楽に類似したものである可能性すらあるのです。


 こちらが「これは普段からクラシックに馴染みのない人たちにはきっと難しいだろうな」と考えるということは、一見すると親切な配慮に見えて、しかしその裏側には侮蔑や傲りが貼り付いているのでしょう…「こんな難しい音楽をあいつらが楽しめるわけがない」と。当然そんなつもりは無い!と言いたかったのは勿論ですが、当時の僕は恐らくそこに無自覚的だったのでしょう。


 岡本太郎の好き放題に容赦無く描く姿勢は、その侮蔑や傲りが無かったからこそできたことなのではないかと想像するのであります。自分がどんなに奇怪な、いやったらしい作品を世に放とうとも、それに遭遇する人々は必ずその人なりに受け止めてくれると信じているわけです。


 確かにリスクは大きいと思います。しかし「きっと聴き手は自分が良いと思う芸術を受け止めてくれる」と信じてもよいと思うのです。コンサートに集う人々が、クラシックを普段聴かない人であるか、筋金入りのマニアであるかによって、その内容を変える必要は無いという可能性もあります。売る対象を想定して提供するマーケティングの考えには真っ向から反抗してしまいますが…(笑)


 どうしても予備知識が必要になる内容も実際にはあるとは思います。ならば「予備知識が必要ということは難しいんだ、だから内容を簡単なものに変えよう」というのではなく、その必要な予備知識をカバーできるように工夫をすればよいのです。メインに繋がるようにサポートしてくれる曲目を追加するでも良し、MCで明解な説明を加えるでも良し、プログラムノートを徹底的に書くでも良し、宣伝の段階で動画なりSNSなりで喋っておくでも良しです。


 親切心や配慮から「すぐに楽しみやすそうなもの」を選別して提供しようという意図は察します。しかし、もう一周回ってしまって、「最終的にはここに辿り着いてほしいんだ!」と音楽家側が思っているものを本当に最前線に提示してもよいのではないかと思います。あとは音楽家の意気込みと工夫次第でしょう。細かい段階を踏むこと無く、その魅力にひとっ飛びの直観でリーチする人がいるかもしれないのです。


 このような姿勢はハイリターンでありながらもハイリスクです。そのハイリスクを背負ってまで聴衆の受容力を信じなければならないわけですから、正直こんな怖いことはありません。集客ゼロがあり得るかもしれないし、ブーイングが飛んでくるかもしれない。しかし個人的には、少なくとも自分は、聴衆を信じてそれを決行するしかないと思うのであります。そして音楽家の誰もがそれぞれ本当に自分のやりたい音楽を世に問うようになった時に、そこではコア層/ライト層という壁は消え、音楽全体が真に大衆のものとなるでしょう。


 これを読んでくださっているあなたも、きっと色々な音楽を受け止めてくれると信じていますよ。



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