ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven, 1770~1827)と言えばクラシック音楽においては巨人の中の巨人、誰もがその存在と作品群を崇め奉ってきた作曲家でしょう。
僕がピアニストなので今回はピアノ作品に焦点を当てたいのですが、まず彼のピアノ作品の中で何が凄いかと言われれば真っ先に挙がるのは32曲のピアノソナタと考えて間違いないと思います。俗に「ピアノの新約聖書」などと呼ばれたりもするようです(ちなみに「旧約聖書」と呼ばれるのはバッハの《平均律クラヴィーア曲集》らしい)。その所以としては、大小の規模の差はあれど、ベートーヴェンがその創意をフルに注ぎ込んで1曲1曲において音楽的実験プロジェクトを試みた点にあるでしょう。ここにおいてベートーヴェンのソナタは奥深いと言われるわけです。
次いでベートーヴェンのピアノ作品の中で注目されるのは変奏曲でしょう。彼はあの手この手で多様な変奏を思いつき、これまた聴き手を熱狂に導くように効果的に構成してしまうのですから、多彩な変奏曲群に魅せられるファンも多いと思われます。
そんなわけで、ベートーヴェンのピアノ作品に関してはソナタと変奏曲でほぼお腹いっぱい同然になるのですが、ここで好奇心を持った一部の人々はそれ以外の作品が視野に入ってきます。「ソナタと変奏曲以外で、何か面白いピアノ作品は無いの?」と。
その好奇心を待っておりました。そんなあなたに榎本がオススメしたいのはズバリ、“ソナタ”でも“変奏曲”でもない、“小品”という部類の作品群です。
バガテル
バガテルとは「つまらないもの」「ちょっとしたもの」という意味の作品です。あのベートーヴェンが自作に「つまらないもの」なんて名付けるんですね。
そんな冗談はさておきまして。作品番号を持つ彼のバガテル集は3つあります。
《11の新しいバガテル》Op.119と《6つのバガテル》Op.126は晩年の作品。特に後者はベートーヴェンの人生最後のピアノソロ作品でありまして、「ちょっとしたもの」という名前のくせに音楽が後期ソナタのような深淵な空気を纏っている味わい深い作品となっています。
一方で《7つのバガテル》Op.33は、恐らく教材として書かれたりしてきたものを寄せ集めただけの気楽なバガテル集です。肩の力を抜いてリラックスして聴けるものや、冗談を飛ばして笑わせてくるようなものが揃っておりまして、ベートーヴェンの飄々とした一面が見える作品となっています。
なお、誰もが知っている《エリーゼのために》WoO.59もバガテルに分類されている他、作品番号の無いものがまだまだいくつか存在します。
ロンド
1つの主題がエピソードを挿入しつつ何度も戻ってくるロンド形式。そのまま「ロンド」というタイトルを冠した作品がやはりいくつかあります。
《2つのロンド》Op.51はソナチネアルバムに載っていることもあって、ちょっと上手い小学生が弾いてしまうような曲ではありますが、ささやかで可愛らしい作品です。ぜひ大人になってからもじっくりと弾いていただきたいです。
そしてベートーヴェンの小品の中でも実は割と有名な《ロンド・ア・カプリッチォ》Op.129にも言及しておきましょう。華やかで愉快な曲調でありつつも、そのドタバタした慌ただしさから付いた渾名が『失われた小銭への怒り』。ピアニストの間でも「“小銭”弾くの?」と言えば通じると思います。トムとジェリーのアニメにも出てきていたような記憶があります。
ちなみに作品番号だけ見るとOp.51は中期、Op.129は晩年の作品のように思われますが、実際には創作活動の初期に書かれたものが後で出版されただけのことです。また、作品番号無しのロンドがまだいくつか存在します。
前奏曲
ベートーヴェンの実験的な怪作があります。それこそが、19歳のベートーヴェンが書いた、オルガンまたはピアノのための《12の長調に渡る2つの前奏曲》Op.39です。2曲とも、ハ長調から始まって転調を重ね、12の長調をぐるっと回って戻ってくるという、なんともトチ狂った作品です。コンセプトだけで勝負にいった感が否定できないことは認めざるを得ませんが、ベートーヴェンが最初から実験家だったということを確かめられる音楽となっています。
なお、作品番号無しの作品の中にもヘ短調の《前奏曲》WoO.55があります。
幻想曲
『月光』という通称を持つピアノソナタ第14番は、第13番と合わせて《2つの幻想曲風ソナタ》Op.27としてまとめられています。『月光』の知名度によって、ベートーヴェンのピアノ作品について「幻想」という言葉を持ち出すと、この幻想曲風ソナタの方が出てくる人が多いと思います…が、実はピアノのための《幻想曲》Op.77というズバリそのものな作品も書いていたのです。
この《幻想曲》、世間では《幻想曲 ト短調》などと書かれることがありますが、この曲においてト短調であると判定できるのは最初の2小節と1拍だけであり、むしろロ長調の変奏曲部に突入するまでは非常に多くの転調を繰り返すために中心調をほぼ決められないというのが実際です。そのようなポイントが『幻想曲』の性格の表現に寄与しているのでしょう。
ポロネーズ
ピアノソロでポロネーズというと、ショパンやリストのそれを思い出すと思いますが、実はベートーヴェンも1曲だけ、エネルギッシュな《ポロネーズ》Op.89を書いています。
華やかさはどうしてもショパンらに劣るにせよ、コンパクトでかつ明るい曲調を持っているため、「ちょっと何か弾いてよ」と言われた時に弾くと良いサイズかもしれません。
アンダンテ・ファヴォリ
ピアノソナタ第21番『ヴァルトシュタイン』Op.53は、ソナタ形式の第1楽章、“序奏”の第2楽章、ロンドの第3楽章(序奏とロンドをまとめて1つの楽章とする捉え方もあり)から構成されています。ところでこのヴァルトシュタインソナタは、中間楽章に元々長大なアンダンテが置かれていました。曲が長くなりすぎると考えたベートーヴェンはアンダンテをソナタから切り離し、新たに“序奏”を書いたわけですが、その切り離されたアンダンテこそが《アンダンテ・ファヴォリ(お気に入りのアンダンテ)》WoO.57です。
凝った展開といい難しいオクターヴパッセージといい、このアンダンテがそのままヴァルトシュタインに置かれていたら大変だったろうなと思えるような力作となっています。
ここまで紹介した以外にも、エコセーズなどの小品があります。
ベートーヴェンは、どうしてもその芸術家としての偉大なイメージ像ばかりを押し出され、そしてその作品も「偉大」だの「革命的」だのと大きな価値があるものとしてばかりPRされます。確かに大きな価値はありましょう。しかし、そんなにも毎度毎度「偉大な作品を作ったるでぇ!」みたいな心持ちであったとは思えないのです。
僕が人生で初めて触れたベートーヴェンの作品は、先にも紹介した《7つのバガテル》でした。運命交響曲なんかよりも先にです。そのために、僕の中のベートーヴェンの第一印象は悲劇に見舞われた闘う芸術家ではなく、冗談好きの活き活きしたおじさんだったのです。ソナタで闘うベートーヴェンだけではなく、バガテルに遊ぶベートーヴェンの姿にも、彼の人間らしさを感じずにはいられないのです。
せっかくのベートーヴェンイヤー、彼のそんな一面も注目されたらいいなぁと思います。
2020/12/16 追加
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