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執筆者の写真Satoshi Enomoto

【名曲紹介】モーツァルト《アダージョ ロ短調》KV540:天才の陰鬱と深淵


 モーツァルトのピアノ作品と聞くと、多く思い浮かべるのは天才の筆致で書かれた軽やかで明快な音楽でしょうか。クラシックに馴染みの薄い方々でもなんとなくイメージする通り、音楽のアイデアを次から次へと考え出せるような人ではあったでしょうから、そのイメージが間違っているわけではないと思います。


 しかしモーツァルトの音楽は時に、ぞっとするほどの陰鬱さを見せることがあります。有名どころから無名どころまでに点々と散らばっているそのような作品を片っ端から指摘していくこともできますが、その中でも今回は《アダージョ ロ短調》KV540について書きたいと思います。


 

 この《アダージョ ロ短調》が書かれたのは、目録によると1788年の3月のこと。


 同年には《ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」》KV537、《交響曲第39番》KV543、《ピアノソナタ第16(15)番》KV545、《交響曲第40番》KV550、《交響曲第41番「ジュピター」》KV551などといった、モーツァルトの作品の中でも最高位の完成度を誇る作品群を創作しました。前年に完成させたオペラ『ドン・ジョヴァンニ』の初演もありました。作曲家としての創作活動自体はまさに充実を極めていたといってもよいかもしれません。


 その一方でモーツァルトの経済事情は借金地獄へ突入していました。彼自身の浪費癖もさることながら、聴衆の好みの対象がモーツァルトの音楽から離れつつあったという面さえもあったようです。1787年に父レオポルトが死んだ際には、姉マリア・アンナ(通称ナンネル)に相応の遺産相続を寄越すように手紙を送っていますし、1788年の6月からはフリーメイソンの仲間であった商人プーホベルクに度々借金をお願いする手紙を書いています。


 モーツァルトの苦境が深まっていく過程の途中に、この謎の多い《アダージョ》は存在しています。まったく華やかではないどころか、むしろ彼の一般イメージからはかなりかけ離れた重苦しい音楽となっていて、少なくとも大衆を対象に想定した作品ではないと判断してよいでしょう。


 

 まず、この《アダージョ》の主調として設定された調がロ短調であるということが、最初に目につくイレギュラーでしょうか。モーツァルトの作品における長調の多さは彼自身の趣向というよりはむしろ時代の要求としての方が大きな要因であると考えられるのでしょう。それでも、短調で書かれたモーツァルト渾身の作品はいくつも存在しています。その上でこの作品が異様に見えるのは、ロ短調を主調に設定した作品がこの《アダージョ》だけであるという点にあるでしょう。モーツァルトがどの音律を使っていたかについて僕は詳しくありませんが、それはロ短調をわざわざ選んだ理由を明らかにするヒントになるかもしれません。


 この小品の形式は終結部をもつ典型的なソナタ形式(提示部→展開部→再現部)であると考えてよいでしょう。三部形式と説明されていることもあるのですが、第一主題と第二主題も指摘できますし、調関係も一般的なモデルに沿っています。


 第一主題は主調であるロ短調の単旋律から導かれるように始まります。階名でラ↘️ミ↗️ドという音型ですが、ミからドへの6度上行によって咽ぶようなエネルギーが増大し、その直後にsfで鳴らされる減七の和音によって悲しみが吐露されます。そのまま終止できるかと思いきや、低音の支えを失って投げ出され、倚音をぶつけながらフラフラと彷徨います。このような第一主題が提示された時点で、聴き手はこの音楽がこの先もほぼ救いの無いものであろうということを感じ取るでしょう。



 第一主題が左手に移ってもう一度繰り返されるうちに、音楽は平行調であるニ長調に転調します。これによって第二主題が開始されます。低音の厳しいリズムをもつ分散和音に射出され、高音で半音ずつ動いていきます。運命に翻弄される弱々しく不安定な存在の表現でしょうか。この後、やや朗々と旋律が歌われた後、走馬灯のように第一主題が回帰して提示部をまとめます。



 展開部はト長調から始まります。提示部がニ長調で終わりましたから、それをドミナントに見立てた時のトニックということでしょう。第一主題と第二主題を繋ぎ合わせて作られていまして、しかもその第二主題は提示部のものから変形されています。16分音符の刻みは右手から左手に移りました。厳しいリズムの分散和音は上行形から下行形へと変化します。今度は上から叩き落とされて地面を蠢くような印象でしょうか。



 半音で蠢くような転調をするため、ト長調から嬰ヘ短調という変遷を遂げます。大きな外圧によって無理矢理に歪められたような印象を与えることになるでしょう。嬰ヘ短調の第一主題も26小節目の3拍目から始まっています。今の浄書ならば26小節目の1, 2拍目を2/4拍子として括って、3, 4拍目は27小節目として書き始めるはずです。4拍子に基づく進行が半端なところで歪められることによって、この部分の緊張感は生まれるのでしょう。


 この後も、ト短調→イ短調という順で第一主題を繰り返し、ロ短調で再現部に到達します。新しいアイデアを次々に出せるはずのモーツァルトにしてみれば、ここまで切り詰められたどうしようもない展開部も珍しいでしょうか。故意にシンプルに書かれたKV545のソナタの方がまだ色々やろうとしていると思います。運命にただただ運ばれるだけの展開部が否応なしに過ぎて行くという表現とも捉えられるかもしれません。



 再現部では、今度こそ第二主題も主調であるロ短調から逃れることはできません。提示部がニ長調であったぶん、相対的に深刻さが増して聴こえてくるでしょう。



 再現部は提示部と同じ尺で終わりますが、この曲には短い終結部が用意されています。高音部での半音階下行が規模を増しながら3回繰り返された後、音楽はロ長調へと転調します。絶望の末に一筋だけの光が差すような情景ですが、それによって魂が救われたのかどうかは殆ど判然としないまま、音楽は闇の底へ消えてしまいます(これ見よがしにrit.などをかけることはしない方がよいのではないかと個人的には考えています)。



 このような救済ENDとも絶望ENDともつかない終わり方をするので、この曲が別のソナタの緩徐楽章であり、続く楽章があったのではないかという推測もあるようですが、とりあえずロ短調を中間楽章に持ってくることができそうな調のソナタは現在知られている彼のピアノソナタの中には無いと思われます。


 個人的にも(本当のところはわかりませんが)、この曲はたまたまソナタ形式で書かれた単一の小品であり、しかもモーツァルトの個人的な動機によって書かれたプライヴェートなものであったのではないかと考えています。本人の人生の中では苦悩に満ちた時期のものであったことは間違いないでしょう。そこに救済を見出だすことができたのか、それとも救済は願っただけのものなのか、本当のところを知ることはできません。あくまでも手紙と楽譜から拾った情報で組み立てただけの妄想であります。


 

 モーツァルトのピアノ小品集の楽譜を買ったのはだいぶ前のことです。コロナ禍に突入するよりも前だったかもしれません。その時にはピアノソナタ集は既に所持していていくつか弾き、長らく「モーツァルトってそういう明快で大衆ウケしそうな…」という勝手なイメージを持ってしまっていたのが、ハ短調の幻想曲とソナタによってイメージが更新され始めた頃合いだったと思います。この《アダージョ》を含め、小品集に収められたモーツァルトの知られざる意欲作の数々に度肝を抜かれたことを覚えています。


 来る6月17日にソフィアザール駒込で行うコンサート『深淵なる重低音の世界』ではこの《アダージョ》も演奏します。共演する赤木恭平さんが『魔笛』のザラストロを歌うので、折角ならモーツァルトを弾こうと考えたわけですが、普段のモーツァルトらしからぬ重低音も深淵も含まれたピアノ小品として、この《アダージョ》こそ今回弾くべき曲だと思ったのです。その後に続くロマン派のヴォルフの劇的な歌曲にもすんなりと繋がりますので、コンサート自体の世界観の中でのモーツァルトの深淵をも味わっていただけたらと思います。


 

2023年6月17日(土)

14:00開場 14:30開演


赤木恭平 & 榎本智史

『深淵なる重低音の世界』


会場

ソフィアザール・サロン駒込

JR駒込駅より徒歩


入場料

3,000円


プログラム

モーツァルト『魔笛』より

モーツァルト《アダージョ》KV540

ヴォルフ《ミケランジェロの詩による3つの歌曲》

ヴェルディ《ワルツ》

カゼッラ《悲しき子守唄》Op.14

ヴェルディ『ドン・カルロ』より

ほか


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