新型コロナウィルス対策として、名古屋市教育委員会は音楽の授業で「心の中で歌う」という活動を取り入れるように指針を出しました。
音楽を心の中で捉えられるようにすることは、コロナ禍に関係無く大切なことです…が、やはり音響や演奏による負荷といった実体験を伴わなければ音楽の重量を知ることには至れないとも思うのです。詩を心の中で反芻することは一瞬でできても、声に出して詩を朗々と読み上げるのにはエネルギーも消費しますし時間もかかります。音楽というものはどうしても後者の比重が大きいのです。
と、そんな折に、僕も尊敬する声楽家の松平敬先生がとある作品を発表しました。そのタイトルも《心の中で歌う》、楽譜の指示も「心の中で歌うこと。」というものです。
この無音の音楽を聴いて「アイデアの勝利か…!」と感嘆しましたが、そういえば似たような曲を僕自身が既に知っていることを思い出しました。それはケージ(John Cage, 1912-1992)が書いた、「tacet(全て休止)」と指示された無音の音楽である《4'33"》から、更に30年以上遡って第一次大戦と第二次大戦の間に書かれた作品です。
それこそが、今回紹介するシュルホフの《5つのピトレスク》です。
シュルホフ(Erwin Schulhoff, 1894-1942)はプラハに生まれた作曲家・ピアニストです。まだ当時はチェコスロヴァキアは独立前、プラハといってもオーストリア=ハンガリー帝国の領土であり、シュルホフ自身もドイツ語を話していました。ちなみにユダヤ人の家系です(伏線)
早熟に音楽の才能を示し、7歳の時には晩年のドヴォルザークにも面会していて、10歳でプラハ音楽院に入学しています。次いで、指揮者ニキシュの推薦でライプツィヒに移り、ピアノをタイヒミュラー、作曲をレーガーに師事しました。卒業後、古典の作品に加えて自作品も弾くピアニストとして活躍し、さらにケルン音楽院に進むこととなります。その在学中にはドビュッシーの音楽にも傾倒したようです。
ところが1914年に事件が起こります。そう、第一次世界大戦です。シュルホフもまたオーストリア軍の兵士として戦地へ赴き、4年間従軍しました。負傷しつつもどうにか生き延びたシュルホフでしたが、この戦争体験を経て徹底的な平和主義者となって反戦を主張し始め、作風を大きく転換します。
1919年にドレスデンで仲間の芸術家らと共にグループ『時の工房 Werkstatt der Zeit』を結成すると、まずは新ウィーン楽派に由来する表現主義を音楽に採り入れました。これは《10のピアノ曲》Op.30から始まります。
そしてもう一点、ダダイズムにも興味を持ちました。代表作といえば《ソナタ・エロティカ》でしょうが、この曲の詳細については自主規制します。…(笑)
戦争への反動から、これらの表現方法を模索したシュルホフでしたが、どうにもしっくりくることは無かったようです。そんな中、ダダイズムの画家グロス(George Grosz, 1893-1959)から教えてもらったジャズへの接触が、シュルホフの作風を決定しました。
1923年にプラハに戻ってからは、プラハ音楽院で教鞭を執ったり音楽評論を行いながらピアニスト・作曲家として活動しました。ピアニストとしては古典もさることながらスクリャービン、新ウィーン楽派(シェーンベルク、ヴェーベルン、ベルク)、バルトーク、ヒンデミットと主要な近代作曲家を網羅するレパートリーを持ち、さらには四分音ピアノを弾いてハーバやヴィシネグラツキーを紹介し、しかもそれに加えてジャズピアニストとして活躍し、ラジオにも出演してクラシックだけでなくジャズもポピュラー音楽も即興演奏もこなすという、現代から見てもとんでもねえ力量を持った音楽家だったことが伺えます。
この時期に書いた作品群が現在最も親しまれているシュルホフ作品でしょう。実は日本でも1934年に、当時学生だったあの伊福部昭が《無伴奏ヴァイオリンソナタ》を日本初演しています。
1930年代、ナチスの台頭に対してシュルホフは共産主義に傾倒していきます。シュルホフはユダヤ人ですから、音楽の機会を奪われていくことになりました。各地域を転々とし、多くの偽名を使いながら活動を続けていましたが、「ユダヤ人」「前衛音楽家」「ジャズミュージシャン」「共産主義者」という満点の排撃対象であるシュルホフにとうとうナチスの魔の手が伸びます。ソヴィエトへの亡命を画策したシュルホフでしたが、ドイツが独ソ不可侵条約を破るのが一歩だけ早く、結局逮捕されてしまいました。衛生環境の劣悪な収容所内でシュルホフが病死したのは1942年のことです。1986年にヴァイオリニストのクレーメルが取り上げるまで、シュルホフは音楽史の闇に埋もれていたのでした。
さて、《5つのピトレスク》Op.31は、第一次大戦での従軍を終えたシュルホフが、1919年にその作風を一変させ、ダダイズム + ジャズというイディオムで書いた作品です。ジャズを採り入れた最初の作品であり、まだまだジャズとして消化できていない感が否定できないのはさておき…(笑)
3曲目以外には本当は標題は付いていないのですが、テンポ表記のところに題材となった舞曲が記されています。
第1曲『フォックストロット』
フォックストロットは、1910年代半ば頃にアメリカで盛んになった4拍子の舞曲です。二人で組んで踊ります。音楽の性格は軽いものなのにシュルホフのこれは和音が分厚くてそんなに飄々とは弾けませんね…
第2曲『ラグタイム』
ラグ あるいは ラグタイム は、19世紀終わり頃にアメリカ南部で黒人音楽を元にして生まれ、主にピアノで演奏された音楽です。アメリカの作曲家 スコット・ジョプリン(Scotto Joplin, 1867?-1917)のものが有名でしょうが、ヨーロッパでも何人かの作曲家がジャズに触発されて書いています。
シュルホフのこれは伴奏の平行和音に何となくドビュッシーを感じられなくもない…でしょうか。メロディもあからさまに五音音階っぽいですね。
第3曲『未来へ』
これこそが《5つのピトレスク》中で最大の謎にしてメインの話題です。
テンポ表記は「時間を超越」という意味です。拍子記号は上段が3/5拍子、下段が7/10拍子という一見とんでもないことになっていますが、実際に音符を数えると4/4拍子です。最初の発想標語は「歌全体を自由に表情と感情をもって、常に、最後まで!」という意味。
で、肝心の音符が殆ど休符!
もっとぶっ飛んでいるのは楽譜の中に「!」や「?」や「顔文字」があることです。どうやって演奏するの?と思うところですが、実は演奏指示や楽譜の読み方などについて、一切シュルホフは書いていません。しょうがないので、これを「演奏」する人たちは各々独自の読み方で楽譜を読んで「演奏」しています。
一体何を意図して、この曲は書かれたのでしょうか。こればかりは僕も答えを出すことができません。より詳しく研究している人に丸投げしたいと思います。
第4曲『ワン・ステップ』
ワン・ステップはその名の通り、組んだ二人が1拍に1歩のステップで踊るダンスだそうです。1910年代のアメリカで興りました。テーマの音型にも跳躍が感じ取れるかと思います。
第5曲『マシーシ』
“Maxixe”は「マシーシ」と読みます。19世紀後半にブラジルで生まれたダンスミュージックであり、名前の由来はモザンビーク南部にある町「マシーシ」だとか。シンコペーションが特徴的です。
戦争の凄惨さをリアルで体験してしまったシュルホフにとって、音楽は単なる娯楽ではなく、既成の価値観を転覆するための武器になっていったのでしょう。その戦い方こそが、前衛音楽であり、ダダイズムであり、ジャズであったわけです。シュルホフは自分の音楽によって、未来を変えようとしていたのかもしれませんね。
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