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執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記・音楽理論】音楽上で0から数えないということ(数えることもあるけれど)


 X上で「音階や拍節を0から数えるべきである」という主張が流れてきました。


 この意見を読んでまず自分の感覚と照らし合わせたところでは「到底合うものではない」という感想が湧いたわけですが、この時点では明確な理由が説明できるわけではなかったので、自分が何を感じたのかを省みてみました…というのが今回の記事です。



 音楽理論の実用上として、実際にピッチクラス・セットにおいては十二音は1から12ではなく0から11の番号が振られます。音列操作では基準を0にした方が認識しやすい・扱いやすいという理由があることは理解していますが、極めて個人的な気持ちとしては「音があるのに0かよ」ということも同時に思ってしまうところではあります。


 恐らく元ポストとしてはピッチクラス・セットを想定しておらず、「音階」という用語を出していることからも、これは旋法における音度のことを想定している主張であると考えてよいだろうと判断します。


 音度の Ⅰ 度、つまり主音を「0」と呼ぶことを主張していると思うのですが、一般的な調性音楽における旋法の構成音の数が「7」であり、それを数えるためには「1」から順に振った方が解りやすいでしょう。調性から離れても八音音階や九音音階といったものも存在しますので、音階構成音の個数に合わせる方が合理的であると思われます。逆にピッチクラス・セットについては音階を成しているわけではないことからむしろ「0」を起点にするということができているのでしょう。


 

 次に、音程に視点を移しましょう。これもまた議論の中心になるのは「同度音程」を「完全1度音程」と呼ぶことの是非でしょうか。音程とは音同士の距離と説明されます。距離が0であるはずの同度音程が「完全1度」と呼ばれることが直観に反すると感じる方もいらっしゃるでしょう。


 確かに「音程」は各音の距離に喩えられて説明されます。しかしその表し方は距離というよりは「各音の存在の集積」として示されます。音が存在するということそれ自体が「1」であり、その1が同じ音に重なって一つに見えることが「完全1度」であるのでしょう。


 「2度音程」は1が隣に並ぶので2度音程です。2度音程には大きく分けて広いものと狭いものがあるので、それぞれを長2度・短2度と呼んでいくわけです。


 では「長/短3度音程」は? 確かに音は2つしかありません。1が2つしか無いのならば距離がいくら離れても2度音程ではないのかと思われそうですが、音程は2音間にある音も1として内包・認識されています。1が3つ並びまして「3度音程」となります。4度音程以降も同様であります。



 実際にある問題としては、2オクターヴ音程が「完全15度音程」であるということでしょうか。数えてみれば確かに15度であることに間違いないのですが、1オクターヴが「完全8度音程」であることから単純に2倍して16度と導くことができないところに気持ち悪さを感じる人はそれなりにいるようです。ケージが2オクターヴ上げる記号を頑なに「16」と書いていたことは聞いていましたが、先日メシアンも「16」と書いているのを見つけて驚いたものです。


 この記事の話題とは少しずれますが、「長2度と言った時に間の半音は数えないのか?」と疑問を持たれる方もいらっしゃると思います。確かにそこにも音は存在し、実際に鍵を弾くことはできるでしょう。しかしその音は基本となる旋法内には存在しないので数えません。


 すると今度は、十二音音楽などの基本となる旋法の存在が望めない場合、旋法を前提とした音程認識は崩れるのではないか…と思われそうですが、まさにそのように感じたからこそオブーホフやオネゲル、ハウアーは独自の記譜法を考えるに至ったのかもしれません。ちなみにオブーホフの方法では1オクターヴ上下する記号を「13」ではなく「12」と表記していますので、もしかすると同度は「0」と捉えているかもしれません。


 

 そして拍子・拍節についてです。元ポストでは「10時の始まりは10時0分0秒であって10時0分1秒ではない」という喩えが持ち出されており、下図の青字で書いたような認識をしていると思われます。DTMで秒ベースで音を打ち込んだり、あるいは動画を編集したりする時の画面で見たことがあるような時間の目盛りと同じような考え方かもしれません。時間を測る側の捉え方なのでしょう。



 この時間を測る側の捉え方は、僕自身にとっては非常に違和感のあるものでした。拍の数を数えているので1拍目を「1」と呼ぶ…という至ってシンプルな捉え方に自分が馴染んでいるという他にも、「0」は1よりも前に既に存在していると感じているからです。これまでにそれを「0」という名前で呼んだことはありませんが、1拍目の始まる前に存在する「0」に該当する状態が生成された上で僕は「1」を始めているのです。この感覚は時間を測る側ではなく演奏を作る側の感覚かもしれません。


 「榎本の言う 0 とは予備拍のことか?」と言われるのですが、個人的には予備拍とは別物だと思っています。もはや予備拍もまたカウントされるべき拍であって、「0」は予備拍より更に前に存在すると感じます。音楽が脈動を始める前の静止状態、身体が運動を始める前の安定状態と表現するのが近いかもしれません。音楽が始まる時点は起点0ではなく、音楽が始まる時点には既に起点0を過ぎているのであります。


 元ポストのように喩えるのであれば「10時の始まりは確かに10時0分0秒だが、音楽が始まる時は既に10時0分1秒だ」と言いましょう。下手な喩えは意図が的確に伝わらないどころか本質をあっさり捻曲げるので好きではないのですがね…


 

 此度の主張に端を発する議論は、どのように捉えるかという姿勢や考え方にもよって変わってくるものであると思われます。ヨーロッパでは歴史的に0の概念がどうの…ということは今回の話題ではなく、音楽を捉える上での感覚がどのようであるかということにもなるでしょう。これを書いている僕自身は堅物寄りのクラシックの演奏家という立場や見方で考えて「従来通りの方法が演奏感覚上も納得できる」という結論に辿り着いているわけですが、皆様の感覚上ではいかがでしょうか。

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