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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【雑記】メロディもハーモニーもある音楽を、なぜ「メロディもハーモニーも無い音楽」と捉えてしまうのか


 20世紀に入って調性が希薄化してきた音楽について、「我こそは音楽を知っているぞ」という顔で音楽を解説したがる人間が「メロディもハーモニーも無い音楽」などという表現を用いて評するという場面を時々目撃します。いや、そのような知ったかぶりの人間たちをさておいても、すっかり流布した「ゲンダイオンガクにはメロディもハーモニーも無い」という認識は、純粋に音楽を聴こうとする一般聴衆の受容力や姿勢にさえ影響を及ぼしていると思われます。



 

 先入観とは恐ろしいもので、一旦「この音楽にはメロディもハーモニーも無い」という前提を得てしまうと、その言葉を聞く前ならば聴こえてきたかもしれないはずのメロディやハーモニーを「無い」ものとして耳が締め出してしまいます。言葉や蘊蓄といった先入観が、純粋にそのままやってきた音楽を受け止めようとする姿勢を歪めてしまうわけです。せっかく飛んできたボールを虚空と認識してしまってはキャッチすることもできません。


 一度、メロディとはどのようなものか、ハーモニーとはどのようなものかということを考えてみましょう。僕たちは普段身近に聴いている音楽の例の集積として「メロディやハーモニーとはこういう類いのもの」と経験的に認識していることでしょう。何がメロディなのか、何がハーモニーなのかという例を挙げることはできても、その構成原理まで考える機会が少ないのは無理もないことです。


 原理的に言うなれば、継時的関係にある音の連関はいずれもメロディ、同時的関係にある音の連関はいずれもハーモニーといって差し支えないでしょう。それはどんな音でも成り立ちます。「長6度の跳躍進行はメロディだが短7度の跳躍進行はメロディではない」とか「ド-ミ-ソという和音はハーモニーだがド-ファ-ティという和音はハーモニーではない」などということはなく、いずれもがメロディでありハーモニーであるわけです。和声の教科書では禁止と書かれているかもしれませんが、それは実際の作曲時においてまで守らねばならない絶対的なルールではなく、課題実施のためにその時点でのみ指定される条件です。


 狭義のクラシック(18~19世紀)ばかりを念頭に置いている人は、恐らく狭義のクラシックらしいメロディやハーモニーこそが「メロディ」や「ハーモニー」であると考えている可能性はあると思います。特定のモデルが既に脳内に出来上がっていて、そこに近かったり似ていたりするものがメロディやハーモニーであり、そこから遠ざかるほどメロディやハーモニーから遠ざかると認識するのでしょう。ヴェーベルンの音楽の中にショパンのようなメロディを探して見つけられずに「メロディが無い」と言うようなものです。確かにショパンのようなメロディは無いでしょうが、ヴェーベルンのメロディはあるのです。


 このような意味では、「メロディやハーモニーの無い音楽」などという的外れな先入観を得ずに済んでいる人でも、自身の中に既に出来上がっている「メロディとは/ハーモニーとは"こういうもの"」という常識を乗り越える必要は出てくるのでしょう。この音楽はこのようなメロディやハーモニーを持っているのだな…という現実を柔軟に受け入れることができる人は、そのメロディやハーモニーを享受することができるでしょう。


 武満徹のデビュー作である《2つのレント》を「音楽以前である」と酷評した音楽評論家の山根銀二の逸話も恐らくこのパターンでしょう。山根の中に既に確立してしまっていた音楽像から武満の音楽は遠すぎた。その後に武満が評価されたことによって、武満を評価できなかった山根の評判は下落したと聞きましたが。


 

 ここからは余談です。


 今回問題に挙げた言説と並べて「綺麗な音楽を壊すために無調にしたり十二音技法を使ったりした」などという旨の説明をする音楽家が見られます。


 確かに、綺麗ではない、強烈な痛みや怒りを表す方法として無調や十二音技法が採られた例が皆無というわけではないでしょう。そのように用いられた"例もある"ということは言えると思います。しかしそれは到底、全ての無調や十二音技法による音楽に当てはまる考え方ではありませんし、「綺麗な音楽を否定すること」そのものは全く本質ではないと思います。交響詩を聴いただけで「全ての音楽には物語が付いている」と考えるようなもの…と喩えてもよい程度には大雑把過ぎる認識でしょう。


 今でこそシェーンベルク作品の中では比較的人気のある《浄められた夜》も、当初は批評家から悪く言われることもあったようで、「この六重奏曲は私には定期市でよく見かけるような6フィートの子牛のように思える」と書かれたことを後にシェーンベルクが自身の文章の中で紹介しています。これに対してシェーンベルクは「この6フィートの子牛の目が綺麗だということを認めることすらできないのだろうか。また、この子牛の皮の色が素敵だということを認めることすらできないのだろうか」などと面白可笑しく冗談を交えながら反論していますが、この文章の先はさておき、同様のことを後の作品群についても思っていたであろうと僕は想像します。


 あなたが「綺麗な音楽を否定するために書いた汚い音楽」であると思った音楽を、作曲者や他の聴衆は「綺麗な音楽」であるとおもっているかもしれませんよ

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