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  • 執筆者の写真Satoshi Enomoto

【ソルフェージュ・雑記】階名は「全ての調をハ長調/イ短調に移高する」考え方ではない:固定ド認識に由来する階名への誤解


 階名によるソルフェージュ訓練の重要性を主張する時に、いわゆる固定ド(ドレミシラブルの音名用法)の主張者が階名に対する批判を述べてくれることがあります。ただその中には、階名認識者の側すらも前提にしていない観点を例に挙げて批判を展開するものもありまして、それについては階名側からも修正を入れておかねばならないでしょう。非常に典型的な藁人形論法を展開されてしまっては、単純に風評被害が大きいというものです。


 

 この記事では、階名を「全ての調をハ長調/イ短調に移高して捉えようとするものである」とする認識・主張に対する批判を書きたいと思います。実のところ、この認識・主張は時々見聞きすることがあるものでしたが、階名側もまさかそのような考え方があるとは想定していないので、きちんと前提として断っておく必要があるのでしょう。このあまりにも早い段階で藁人形が登場しています。


 そもそも、相対的な音程関係を基準として指定される階名は、絶対音高のパラメータを含んでいません。例えば単に「階名のド」と示しただけでは絶対音高はわかりませんし、具体的な曲の五線譜が目の前に用意されてでもいない限りは鳴らす鍵盤すら指定されないのです。階名を用いる時、並行して音名を「ハ」なり「C」なりと指示・認識することによって、歌う高さや弾く鍵盤などを初めて特定できるのです。


 ここから導かれるのは、例えば「階名のド-レ-ミ」と「音名のハ-ニ-ホ」は、本来は結び付いたものではないということです。強いて言えば、調号が書かれていない五線譜、そしてそこから転じて鍵盤楽器の鍵盤の形状が音名のハ/Cを階名のドとするものになっているため、それらが偶然にも中心として考えられるようになってしまった側面はあるのでしょう。鍵盤楽器以外の楽器を色々触ってみただけでも、楽器の特性としてハ長調が中心であるとは限らないことが実感できるはずです。


 したがって、階名認識者は長調を階名でそのまま「ド-レ-ミ」などと認識しているのであって、イ長調の「イ-ロ-嬰ハ」をわざわざハ長調の「ハ-ニ-ホ」に移高して捉え直しているわけではないのです。イ長調の「イ-ロ-嬰ハ」がそのまま、ハ長調とは関係の無い階名の「ド-レ-ミ」であるということなのです。階名認識者にとって、【ハ長調の音名「ハ-ニ-ホ」ならば階名「ド-レ-ミ」である】は真ですが、【階名「ド-レ-ミ」ならばハ長調の音名「ハ-ニ-ホ」である】は偽です。


 

 では件の「階名は全ての調をハ長調/イ短調に移高して捉えようとするものである」という認識・主張はどこから来たものなのでしょうか。僕の想像ではありますが、この主張はあくまでも「階名に風評被害を出してやろう」とか、「藁人形で貶めてやろう」といった悪意に由来するものではなく、主張者たちは本当にそのように捉えたという事実であるのでしょう。


 階名はハ長調とは無関係であることを先に述べましたが、固定ド認識の場合は「ドレミ…」というシラブルがむしろ極めて強固にハ長調に縛り付けられることになります。階名認識者がイ長調の音名「イ-ロ-嬰ハ」を階名で「ドレミ」と読んだ時、それを聞いた固定ド認識者の脳内にはハ長調の音名「ハ-ニ-ホ」、つまり固定ド音名の「ド-レ-ミ」が思い浮かぶのであろうと想像します。



 つまり、「全ての調をハ長調/イ短調に移高して捉える」という認識・現象は、階名認識者ではなくむしろ固定ド認識者の方に起こるものであると考えられはしないでしょうか。この言葉は固定ド認識者が階名を批判する時に使ったものであったはずでした。しかしその実はむしろ、固定ド認識者自身のハ長調に束縛された認識・感覚を白日の下に曝す証言になり得るものであったのではないでしょうか。


 

 固定ド認識が強すぎるために調号の多い調が苦手であるとか和声法の理解に支障を来すといった体験を聞くことがありますが、そのような例は極端であるとして、固定ド認識者であってもハ長調とイ長調の両方ともが「長調」であるということは実感しているはずです。ではその長調の実感がどこに由来するかと言えば、それは各音同士の音程関係と力性であり、絶対音高というパラメータは「長調であること」を判断する時には必要とされません。


 しかし固定ド=ハ長調中心から認識が始まる場合、ハ長調以外の調を長調と認識する際のモデルは自動的にハ長調となるのでしょう。「イ長調は各音の振る舞いがハ長調の時と同じである。したがってイ長調はハ長調と同じ長調である」という、ハ長調に移高して考える認識がどこかで働いていないでしょうか。


 ちなみに階名認識者は「イ長調は音の振る舞いがドレミ…なのでイ長調は長調」と導出します。もちろんこの時の「ドレミ…」は階名であり、ハ長調とは無関係です。長調が「ドレミ…」でできていることをまとめて認識しているので、その一例であるハ長調を経由する必要はありません。


 階名という音楽認識の粗を探すのは非常に結構ですが、自身の行っている固定ド認識に本当に問題点が無いかどうかを振り返り、批判・吟味・検討してみることの方が優先順位は高いのではないでしょうか。固定ド主張者の代表格であった作曲家の三善晃の作品にさえも、「階名感覚が無ければその音楽は出てこないのではないか?」と思われる箇所が多々あります。自身が階名感覚を駆使していることを自覚していなかったのかもしれませんが…


 自分自身の音楽への認識が果たしてどのように働いているのかを振り返ってみましょう。そして自分の手元のものについて考えてみましょう。議論が始められるのはその後です。

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