ちょっと煽るような記事タイトルですし、音楽を提供する側の人間の中には「聴衆を侮ってなんかいねえよ!」と反発したくなる方もいらっしゃるかもしれません。特段攻撃の意図は無く、あくまで立ち止まって振り返ってみようというだけの問題提起です。
僕の失敗談から先に書いておきましょう。
僕は大学で教職課程を履修しました。つまるところ教育実習に行ったわけです。授業で実験音楽の鑑賞を取り扱ったのですが、その時に僕は「生徒たちにとって実験音楽は"わけのわからないもの"だろう」と想定していたのです。その前提に立って授業を組み立てていたのでした。
しかし実際に授業をやってみると、どうも僕の誘導があまりに強く、内容の押し付けのようになってしまったのと同時に、生徒たちの考えをあまり上手く拾うことができませんでした。僕自身の授業手法の拙さがもちろん大きな原因なのですが、しかしそれは僕の誤った想定に基づいたものであったと思います。
つまり、僕が伝えようとしていたものより広く、生徒たちがそれぞれにそれぞれの感覚によって音楽を受け止めていたのです。指導教諭(在校時代からの恩師)からも「智史が思っている以上に生徒たちは音楽を考えてるよ」と言われ、なかなか大きな衝撃を受けたものでした。
なるほど、こちらが「聴き手にこの音楽はわからないだろうな」と思うよりも、聴き手は音楽を想像以上に受け止めているものでした。音楽に対する聴き手の受容力を僕は侮っていたのです。
この個人的な事件以来、「意外に聴き手は音楽を受け止めようとしている」という前提で音楽を届けようという姿勢になったと言っても過言ではありません。
「お前、聴衆の耳を侮っているな?」と言われて好い気分になる音楽家はいないでしょう。誰しもそんなつもりは無いはずです。しかし、意識的にそのつもりが無かったとしても、自身の選択の中に無意識のうちに「聴衆を侮る」ような感覚が紛れてしまっていることはあり得るでしょう。
「有名ではない作品や規模の大きな作品はいくら面白かったとしても、それを受け止められるだけの力は聴衆には無いだろうな」と考えると、プログラムがどうしても既に存在が広く知れている小品などに着地してしまいます。
しかもその判断は客観的というわけでもなく、あくまでも演奏者や企画者の主観的なものでありまして、「有名ではない」などと判断した音楽が意外と客層には普通に知られているということは充分にあり得る話です。
同様に、やや前衛的ならびに実験的な手法を用いる音楽について「聴衆には難しいだろう」という判断が下されがちです。特に19世紀以前のクラシックを中心に学んだ音楽家などはこの判断に陥りがちでしょう…というのも、自身が学んだ音楽を基準にした時の「常識外の音楽」であると判断してしまい易いのです。
しかし最近ここ数年の劇伴音楽やポップスなどを聴いてみると、前衛的・実験的な音楽語法がスパイスとしてカジュアルに溶け込んでいることを発見できるかと思います。映画も観なけりゃヒットチャートも知らんという場合は流石に該当しないかもしれませんが、しかし現代の人々の大多数は知らず知らずのうちに前衛的・実験的なサウンドに触れる機会を持っていると言ってよいでしょう。聴衆がそのようなサウンドに馴染んでいないと考える判断は多少クラシック中心の価値観が紛れていると想像します。
属人的な要素ではありますが、特に最近の若い聴衆については音楽受容のハードルはむしろ下がっているのではないかと想像します。一度に全部受け入れられなかったとしても、ちょっとやそっと変わった音楽では驚かないでしょう。
聴衆の音楽受容力はある程度信頼してよいものであると僕は考えます。「こういう音楽は聴衆にはわからんだろう」と最初から思ってしまうのではなく、あくまでも受け止めてもらえることを前提としながら、演奏のやり方・音楽の伝え方を工夫することになると思います。
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