最近、ゲンダイオンガク(現代というほどでもないのにそのように呼ばれて敬遠されている音楽)の話題がその雑な認識故に炎上して、それに便乗して別の雑な認識を述べるというムーヴが繰り広げられましたが、そろそろ鎮火してきたようなので個人的にも言及しておきましょうか。
そうは言っても20世紀音楽史を淡々と陳述するわけではなく、むしろ音楽家並びに聴衆の姿勢の方に反省点があると僕は考えていますので、その面に対する苦言を呈するだけの記事です。ちょっとしたぼやき程度に読んでいただきたいと思います。
特定の時代に限らず、音楽は美術よりも抽象に近い要素を多く含んでいると思われます。真に理解したことになるかどうかはさておき、「具体物に寄せて捉える」という方法は自身にとっての受容を納得させるものとしては効果的なものでしょう。音楽における抽象的な要素を具体的なものに投影して「理解した」と自分の中では得心するわけですね。
ただ、その納得方法が難しい音楽は多々存在します。具体的なものを経過する必要が無いということも普通にあるわけなのですが、このあたりは「具体的なものに投影して意味を捉えられること」=「音楽を理解したということ」という思い込みが習慣や教育によって醸成されてしまっている面もあるのだろうと想像します。
つまるところ、具体的なものに投影するということが到底できそうにない音楽に遭遇した時に、人々は「この音楽は "意味不明である"」という反応を示すという傾向があるのではないかと考えております。そうなると、これはなにもゲンダイオンガクに限った話ではなく、長大なブルックナーやマーラーの交響曲や、パートごとの旋律や歌詞が殆ど個別に聴き取れないであろうタリスの40声のモテット、ミニマル同然の反復をもつペロティヌスのオルガヌムなどを聴いた時にも起こり得る反応ではないかと思いますね。
有名な喩えですが、抽象画の中にニワトリを探して「ニワトリがいない! 意味がわからない!」みたいなことをやっているようなものです。ニワトリなぞ最初からおらんがな。
このように「ゲンダイオンガクは意味不明である」という認識が定着している聴衆に対しては、ゆっくりじっくり少しずつでもその認識を解いてゆくための配慮と工夫と忍耐こそが音楽家には求められると思うのですが、どうもそのような認識の呪縛から解き放つためのコンテンツよりは、「意味不明である」という考えを持っている自分を肯定してくれるコンテンツの方が世間では歓迎されるようです。
なるほど、職業音楽家がゲンダイオンガクを「意味不明」と扱き下ろしてくれたならば、職業音楽家でさえそう言うのだもの、自分が「意味不明」だと思ったのは "正しい" のだ…と安堵する事象の理解はできます。音楽家の側もゲンダイオンガクを扱き下ろしておけば、同じようにゲンダイオンガクを「意味不明」であると思っている聴衆たちが追随してくれるわけですから、意外にもwin-winの関係は成り立つようです。
したがって、ゲンダイオンガクを「意味不明」なものとして面白可笑しく取り上げることによって、既にゲンダイオンガクを「意味不明」なものであると思っている聴衆に対して情報をリーチさせるという発想が現れること自体については、決して不思議なことであるようには僕は感じません。むしろゲンダイオンガクを「意味不明」と忌避する人々に大きな肯定感とそれに基づく充足感を与えるであろうことは想像に難くないでしょう。
余談ですが、昨今は「自分の読めない漢字が含まれる文章を見せられるとバカにされている気分になる」などと感じる人もいるらしく、そういえば電車の中で楽譜を読んでいたら「楽譜を読めないオレをバカにしているのか?」と因縁をつけられたという話を聞いたなぁと思い出しつつ、そういう空気が世間には蔓延しつつあるのだろうか…とやや不安にはなっています。コンプレックスを解消してくれるコンテンツでも求められているのでしょうかね。
複雑なメロディやハーモニーやリズム、あるいは形式や音楽構造などを聴取できるようになるためには、もう何度も聴いて耳を馴染ませるしか方法は無いと個人的には考えております。理屈を知ったところで耳が音楽自体に追いついていけるとも限りません。
ただ、一度そのような類いの音楽に耳が馴染んでしまえば、いざ他の曲を聴いたとしてもある程度受け止められるようになると思います。特定の曲限定で聴こえるようになるわけではなく、自身の音楽を受容する回路自体が拡大するのでしょう。
こんなことを書いている僕でも、最初から複雑な構造をもつ音楽を受け止めきれていたわけではありません。確かに僕は他の方々よりはそのような音楽に接触するのは早かったでしょう。それでも、例えばシェーンベルクを面白いと思えるようになったのは音大に入ってからですし、最近ようやくブーレーズやシュトックハウゼンを楽しめるようになってきました。一聴していきなり面白いと思ったのはトーン・クラスターくらいのものです。十二音技法の楽譜を読んで演奏できるようになったのは大学院を出た後でした。
音楽を始めて短期間のうちに何でもかんでも聴いたり弾いたりできるようになったわけではないのです。僕はもう既に30代ですが、中高生や大学生の時に一度聴いて「受け止めきれないな…」と感じた音楽でも、ある程度耳が馴染んだ今改めて聴いてみると当時はあまり聴こえなかったはずの濃厚なメロディや発光するサウンドなどがあちらから飛び込んでくるようになりました。
どうも「わかりやすく」「面白可笑しく」ということが称揚・歓迎され、挙げ句には「頭のよい人こそわかりやすく話をするんだ、わかりにくい話をする人は頭が悪いんだ」などという言葉が持て囃され、学術や文化に対する大衆の溜飲を下げるという役割を担っているという現実は、ゆっくりじっくり丁寧に伝えようとする人間たちにとっては強烈な逆風であります。
例えばケージの《4分33秒》を「その場で偶然に鳴る音を音楽と言い張るだけのコンセプチュアルアートだよギャハハ」と断じてしまえば、その話を聞いた人々の得心は早いでしょうし、この作品を音楽としての観点で捉えることに納得のいかない人々の溜飲を下げて賛同を得ることも容易いでしょう。しかし、ではケージがどのような創作や思想を経て「意図的に音を出さない」というアイデアに辿り着いたのか? 不確定性とは? 禅からの影響は? 無響室の体験は? 時間を分節することとは? …そのような様々な観点や体験を蔑ろにして、まるで単なる冗談音楽であるかのように断じてしまってよいのでしょうか。
丁寧に厳密に話せばどうしても長くなるし断言もできないし、解答ではなく謎が余計に増えるような有り様です。謎を謎として抱えたまま音楽に向かうくらいでよいと思いますし、謎が謎のままであることに苛立ったり劣等を感じたりする必要などどこにもありません。
それと同時に、謎の音楽を「意味不明」と軽々断じて扱き下ろしてしまうことは、自らの耳を塞ぐことに繋がるでしょう。自らが一時の自己肯定感を得るために見下した音楽は、もう心を入れ替えるまでは味わうことができないと考えてもよいのではないでしょうか。「意味不明」と言い切る前に「これはどんな音楽なのだろう?」とじっくり向き合い、何かを掴むのが10年後でもよいのではないでしょうか。
わかりやすさを求めるのではなく、面白可笑しく消費するのでもなく、丁寧に味わっていけたらよいでs
Comments